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流れる疑問の真ん中で


2024年11月21日(木)朝の6:00になりました。

ねむれどねむれど猶、わが眠気無にならざり。

どうも、高倉大希です。




自己肯定感は、高ければ高いほうがいい。

はたしてこれは、本当か?


学校で勉強したことなんて、大人になったらつかわない。

はたしてこれは、本当か?


誰かにとって都合がよいから、そう言われているだけではないか?

自分にとって都合がよいから、そう思っているだけではないか?


人間は、認識が当たり前のものとして固定化されていくと、その前提が「なぜこうなっているのか?」ということを、改めて考えることはしなくなっていきます。(中略)乱暴に言えば「頭を使わなくて済む」ようになっていくのです。

安斎勇樹、塩瀬隆之(2020)「問いのデザイン 創造的対話のファシリテーション」学芸出版社


じゃあ、自己肯定感は低い方がいいって言うのかよ。

じゃあ、大人になってから漢文の知識が役に立ったって言うのかよ。


このような意見が飛んできそうなものですが、いくらなんでも極端です。

0か100かの、2択ではありません。


疑うことと、反対の立場に立つことは、まったくの別ものです。

本当にそうなのかを考え直してみよう、と言っているに過ぎません。


最近気づいたんですけど、面白い人って「ちょっと待てよ」と思うことが多いなと。みんなと同じものを見ても、違うふうに見えてしまう。「よい科学とは、みんなが見ていることを違った見方で見ることだ」という言葉があります。

石川善樹(2019)「問い続ける力」筑摩書房


一般的に、よしとされている。

そんなものほど、思考の余地が広く残っていたりします。


多くの人たちが、考えようとしなくなっていくからです。

疑われなくなったものほど、危険性が伴います。


大抵そういうものは、外見が小綺麗です。

考えるまでもないでしょという顔をして、そこに鎮座しているのです。


初めは社会のごく一部なんですけど、起きる事象が少しずつ変わっていくんです。しかし制度や大衆の考え方はそのままなので、そこに乖離が生じてくる。そして乖離が大きくなると「今までの考え方がおかしいんじゃないの」と感じる人が増えて、既得権益を攻撃するようになり、社会が変わるというのが、基本的な構図です。

深井龍之介、野村高文(2022)「視点という教養」イースト・プレス


かつてよしとされていたものの多くは、いまはよしとされていません。

いまよしとされているものの多くは、未来ではきっとよしとされません。


こっちに寄っては、あっちが空いて。

あっちに寄っては、こっちが空いて。


もっとも避けるべきなのは、この流れが完全に止まってしまうことです。

前述のとおり、小綺麗に見えるものほど簡単に止まります。






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高倉大希
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