巡り廻るたましいの記憶・琵琶湖へ
「なぜ、踊らぬ。。」
しばらくのあいだ、わたしの顔を、まじまじと見つめていたそのひとは、振り絞るような声で、それでいて、静かな、毅然とした言いかたで、そんな言葉を、わたしに向かって、投げかけて来た。
「あなたを見ていると、そんな言葉が、浮かんで来ます。」
もう四十年以上も前、その日初めて会った「祈祷師」のおばあさんから、わたしは、そんな指摘を、受けたのだった。
何度か、生まれ変わりを繰り返している「わたし」は、いつかの世では、「高貴なひと」の前で「踊っていた」と、いうのだ。
「そのときのあなたは、詠う巫女でした。」
「生き生きと踊り、詠い、かつ、人びとに向かって、指南をするあなたが、わたしには、見えます。」
「祈祷師」のおばあさんは、わたしを見つめ続けたまま、そう、語った。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
ーーそんなこと、言われてもなぁ。。
前世云々の、「あるあるな感じ」のおはなしだから、すぐに鵜呑みにして信じたりはしないことにしよう、と、まずは、疑い深く受け取ったことを、わたしは、今も、憶えている。
一九八一年。
わたしは、二十五歳だった。
そのころのわたしは、就職はしたものの、「適応障害」を発病して、休職を余儀なくされ、「毎日が日曜日」の生活を送っていた。
「仕事」がうまくいかないばかりか、「結婚」さえも、親の反対で進まず、なかなか「人生」が開けてゆかないことで、わたしは、文字通り「四面楚歌」な状態だった。
学生時代に住んでいた「西荻窪」で、たまたま知り合ったひとの「お母さん」が、「祈祷師」をやっていることを知って、こころのなかでは、「信じないぞ」と思っているのに、もう一方では、「藁をも掴むおもい」も拭いきれず、結局お願いして、「紹介」してもらったのだった。
知り合いのお母さんが「祈祷師」だなんて。。
悩んでいたわたしにとっては、あまりにも、タイムリーだった。
もしかしたら、その出会いは、「偶然」とかではなくて、わたしの「気づき」のための「必然」だったのかもしれない、なんて、深読みしたくさえなるほどに。。
ーー簡単には、信じないから、大丈夫。
と、わたしは、内心では、一生懸命に、自分のこころを、牽制していた。
それでも、わたしは、その少し前、お昼寝をしているときに、「金縛り」に遭って、自分のからだから「幽体離脱」したかのような、いかにも古代風の、「巫女の姿のわたし」を、見せられていたので、その「祈祷師」のおばあさんの指摘は、実は、妙に「説得力」を持って、わたしのこころに、「響いて来た」のだった。
「あなたは、何度も生まれ、そのたびに、謡を詠い、踊って、います。」
「あなたは、霊を慰める儀式も、行っています。」
「あなたの名前の『祝子』は、「ほうりこ」とも読めて、神さまに仕える『巫女』という意味なんです。だから、もう、それは、はじめから、『約束された名前』なんですよ。」
初めて会って、「名前」と「生年月日」を教えただけの、わたしのことをそんなに知るはずもない「祈祷師」のおばあさんは、断言するように、そう、言った。
ーーそれだからと言って、全国にいる「祝子」という名前のひとが、全員、「前世が巫女」とは、限らないだろうに。。
と、わたしは、抵抗を試みた。
それでも、信じないぞ、と、いくら頑張ってみても、納得してしまいそうな自分も、一方には、いるのだった。
なぜなら、わたしには、思い当たる節があったから。。
わたしは、その「祈祷師」のおばあさんに、いろいろと相談したい気持ちがもたげて来ることに、しだいに、抗えなくなっていた。。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
わたしが、初めて「金縛り」というものを経験したのは、実は、十四才のころに、遡る。
一九七〇年。十一月末。
「三島由紀夫の割腹自殺事件」の直後、学校から帰宅したときに、自分の机の上に「三島由紀夫」の「生首」が乗っているのを見せられてしまうという、「衝撃的な一件」を経験した数日後、寝入りばなの、わたしの枕元に、突然に、全く知らない女のひとが、座っているのを見たのが、「金縛り」のはじまりだった。
そのひとは、白い着物に水色の帯を締め、寝ているわたしを見つめながら、こう、言った。
「わたしは、『滋賀県のかよこ』と言います。どうか、お願いです。わたしを助けに来てください。」
真っ白な細い顔をしたそのひとは、わたしを、しっかり見つめながら、はっきりと、そう、言ったのだ。
ーー「三島由紀夫の割腹自殺」は、わたしのなかの「何か」を「覚醒」させてしまったのか。。
わたしは、そのとき、とっさに、そう、思った。
それ以来、「滋賀県のかよこ」という「存在」は、寝入りばなのわたしを「金縛り」に遭わせたあと、結構、頻繁に、訪ねて来るように、なった。
「金縛り」になるとき、部屋の空気は、急に固まり、動かなくなる。空気の緊張感が増してくる。緊張感が、やがて、極限にまで達すると、どこからか、かすかな「鈴の音」が聞こえて来る。。
♪ リーン。。 ♪リリーン。。
わたしは苦しくて、息が出来ず、からだも動かせない。
その状態が続くと、階段を登ってくる「滋賀県のかよこ」の足音が、かすかに聞こえて来るのだ。それは、衣擦れのような音だった。
やがて、「かよこ」は、静かに、わたしの枕元に座る。
「かよこ」は、長い髪を、結びもせずに振り乱して、冷たい手を、わたしの頬にあてて、わたしをじっと見つめ、
そうして、毎回、同じように、言うのだ。
「わたしは、『滋賀県のかよこ』です。どうか、お願いです。わたしを助けに来て下さい。」と。。
そのころ、動けないわたしの「恐怖心」はピークに達している。
ーー滋賀県のかよこって、いったい、誰なの? そんなひと、わたし、知らないよー。
こころのなかで、必死に、そう、叫ぶ。
そうすると、ようやく、「金縛り」は、解け始める。固まっていた空気が、緩んで動き出し、世界が元に戻った感覚がして来る。ハッと気づくと、「かよこ」は消えている、のだった。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
「滋賀県のかよこ」は、わたしが中学二年生から、高校三年生までの期間、結構な確率で、わたしの枕元に座り続けた。
東北の地方都市に住んでいるわたしは、「滋賀県」になんて、縁もゆかりも無い。
親戚さえも住んでいないのに、何故、「滋賀県の」、明らかに「あの世のひと」と思われる「存在」が、わたしに助けを求めて、訪ねて来るのか。。
全く、わけが分からなかった。
けれども、わたしが上京して、大学に入学すると、「滋賀県のかよこ」は、不思議なことに、ぱったりと、現れなくなった。
ーーちっとも助けに行かなかったから、諦めたのかな。
なんて、わたしは、思った。
ところが、今度は、もっとさまざまな「あの世のひとたち」が入れ替わり立ち替わり、わたしの枕元に座るようになってしまったのだ。
その人たちは、「滋賀県のかよこ」のように、名乗りはしないのだけれど、枕元に座ったり、布団の上にのしかかって来たりして、部屋の空気を凍りつかせては、ただ、じっと、わたしのことを、せつなそうな目で、見つめているのだった。。
たしかに、怖かったのだけれど、わたしは、もう、そんなことには、慣れっこになっていた。あまりにも、「良くある出来事」になってしまっていたからだ。
そのころのわたしは、まるで、「死者たちと共に在る」かのようなくらしを、していたのだ。。
それでも、それは、決して「当たり前なこと」ではないことは、さすがに、分かっていた。
だから、わたしは、せっかく出会った「祈祷師」のおばあさんに、「枕元の人たち」について、相談してみたくなっていた、のだった。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
「かつてのあなたを知るひとたちが、あなたに、助けを求めて、訪ねて来るのでしょうね。」
そう、「祈祷師」のおばあさんは、言った。
「成仏出来ていないひとたち、この世に未練のあるひとたちは、優しいひとを探して、頼って来ます。そんなに集まって来てしまうのは、あなたが、弱くて優しすぎるからなんですよ。」
「祈祷師」のおばあさんは、そうも、言った。
「そのひとたちに同情していると、あなたの今世は、開けません。邪魔されてしまうのです。でも、大丈夫ですよ。わたしが修業をしたときに使っていた『魔除けのお数珠』を差し上げます。わたしは、あなたに、とても、親近感を覚えるので、このお数珠を、自分のお守りにして、持っていて欲しいのです。」
そう言って、「祈祷師」のおばあさんは、自分の、大切にしている「魔除けのお数珠」を、わたしに、譲ってくれた。
そうして、「あの世から頼ってくるひとたち」が「近づくことが出来なくなる経文」と、「呼吸法」とを、わたしに教えてくれたのだ。
それからのわたしは、教えてもらったとおりに、「お数珠」を「お守り」として、持ち歩くようにした。
金縛りに会いそうなときには、まず、「経文」を唱え、次に、特別な「呼吸法」を試みて、みた。
すると、、不思議なことに、しだいに、「あの世のひとたち」は、現れなくなっていったのだ。
まるで、「耳なし芳一のおはなし」のようだった。
「あの世のひとたち」が現れなくなったころ、以前、「表現を見つめた日々からの離陸〜わたしは書く〜」に書いたように、夢のなかに、茶色いぼろぼろの着物を纏ったおじいさんが現れ、
「あなたの病気は、『かいなんの地』に行けば治ります。」
と、わたしに、告げたのだ。
この夢のはなしを聞いた「祈祷師」のおばあさんは、
「その夢は、あなたにとって、未来を開くとても大切なメッセージです。やがて意味がわかるときが来るので、それまで、忘れないように、憶えておいて下さいね。」
と、言ってくれたのだった。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
「祈祷師」のおばあさんが、あのころ、わたしに言ってくれた言葉を、最近、ふと、思い出した。
「あなたには、これから、気づいていくことが、たくさんあるんですよ。大丈夫だから、勇気を持って、生きて行きなさい。」
わたしはいつの間にか、自分が、あのころの「祈祷師」のおばあさんの年齢を、とっくに、通り越してしまっていることに、最近になって、気がついた。
生きていらしたとしても、すでに、百歳を、優に超えていらっしゃる。。
ーーあの「夢のお告げ」は、たしかに、わたしの「未来を開くメッセージ」でした。憶えておくように、と言って下さって、ありがとうございます。
ーーおかげさまで、わたしは、「かいなんの地」を、探し当てました。「かいなんの地」に辿り着くために、わたしは、いろんなことに気づきながら、ここまで、生きて来ました。
ーー「かいなんの地」を見つけるための「こころの旅」は、苦しくて、大変だったけれど、わたしは、その「旅」を経て、「生きていること」が、ほんとうに、「楽」になりました。「わたしは、生きていても、良いのだ。」という「心境」を、得ることが出来たのです。
ーーわたしは、幼いころから、誰とも違っている自分が、ほんとうは、とても怖かったのです。でも、さまざまなことを経験して、「自分らしく生きる在りかたで、生きていて良いのだ。」と、ようやく、思えるようになりました。
ーーあのとき、いろいろに、助けて下さって、ほんとうに、ありがとうございました。戴いたお数珠は、今も大切に、お守りにして、持っています。あのお数珠は、今も、わたしを守ってくれています。
わたしは、こころのなかで、そんな風に呟いて、手を合わせた。
すると、わたしのこころの奥で、「何か」が、「ピクン」と動いた気が、した。
そうして、
「終わりではありませんよ。」
という、「メッセージ」が、わたしに向かって、何処からか、降って来たような、そんな、「感覚」が、したのだった。。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
ーー「終わりではない」って、どういうことだろう。。
「最終地」に辿り着けたはずと安堵していたわたしは、混乱した。
そのことが、いつも、気になって、こころから離れなくなっていったのだ。
「かいなんの地」に辿り着けたことで、わたしが得たことは、「自分の存在についての絶対的な肯定感」だった。
それによって、「生きていること」が、画期的に、「楽」になったのだ。
でも、それは、もしかしたら、「生きる」上での「前提」を手に入れただけのこと、だったのではないか。。
大病をして、十年以上の「時間」を失くしてしまったけれど、それでも、その「前提」を手にしたまま、まだ、「死なず」に、わたしは、「生きている」のだった。
「かいなんの地」の「かい」は「うみ」のことで、「琵琶湖」を指しているのだ、と気づけたことで、わたしは、「約束の地」と思われる「大神神社」に辿り着けたのだけれど、果たして、「かいなんの地」は、一箇所だけなのだろうか。。
いろいろと考えているうちに、その「うみ」自体を、まだ、見たことがないという事実に、わたしは、今さらながらに、気がついた。
ーー想像しているだけでは、何もわからない。「琵琶湖」を「感じる」ための「旅」に出よう。
わたしは、しだいに、そう、思うように、なっていったのだ。
そうしたら、中高生のころに、いつも悩まされていた「滋賀県のかよこ」のことを、なんだか、思い出すようになった。
ーー全然、関係無いって、思っていたけれど。。
「滋賀県のかよこ」は、とっくに送られていた「メッセージ」のひとつ、だったのかもしれなかった。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
二〇二三年 十二月。
午後二時過ぎに、京都に降り立ってから、わたしは、「JR琵琶湖線」に、乗り継いでいた。
全く未知の土地。。知らない空気感。。乗っているひとたちの顔つきも、なんとなく、違う。
着物を着て電車に乗っているひとたちが、結構居て、土地柄なのかな、などと、思ったりした。
スマホの位置情報とマップと、あらかじめ調べておいたメモを頼りに、「琵琶湖」近くの「駅」まで、わたしは、なんとか、辿り着くことが、出来た。
「旅」は、ほんとうに、「苦手」だ。
お天気は、快晴。
わたしは、「晴れ女」なのだ。「旅は苦手」だけれど、たいてい、「快晴」である。
電車は、確実に、「琵琶湖」が見える方向に、近づいていた。
ーーほら、やっぱり、来た。。
思わず、わたしは、呟いた。
「琵琶湖」が遠目に見えて来た瞬間、わたしは、いきなり、「せつないきもち」に襲われたのだ。
さっきまでの「フラットなこころ」は、どこかに飛んで行ってしまって、わたしは、なんだか、「泣きそうなきもち」にさせられて、いた。
「胸の奥」から、「突き上げてくるような哀しみ」が、わたしを、包みこんで来たのだった。
ーーいったい、この土地で、何があったというのだろう。。
全然、わからない。。
「不思議なおもい」に、取り込まれないように、わたしは、襲ってくる「おもい」を、振り払うための「呼吸」を、試みた。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
その夜。
わたしは、「琵琶湖」の近くで、或るバンドのライブを、十四、五年振りに、観ていた。病気になる以前は、よく追いかけていたバンドだった。
そもそもが、「滋賀県出身」のバンドなのだけれど、知り合ったのは、やっぱり、「下北沢で」なのだった。
「超」がつくほど久しぶりに会ったのに、「懐かしい」とかじゃなくて、普通に、「きのう」も会っていたような気さえして、その「時間の不思議さ」が、なんだか、とても、可笑しかった。
大好きなバンドだから、会えて、そうして、ライブも楽しめて、わたしは、しばし、昼の「哀しみ」を忘れることが出来ていた。。
「再会」は、単純に、嬉しかった。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
翌朝。
わたしは、日の出を見るために、日の出前にホテルを出て、「琵琶湖」の湖岸に向かっていた。
ほんの、五分で、もう、その、大きな「うみ」は、見えてきた。
すると、また、わたしに、きのうも感じた「せつない気もち」と「大きな哀しみ」とが、襲いかかって来たのだ。
その「哀しみ」は、目の前に大きな湖水が広がっているだけに、もう、抗うことなど、到底出来ないほどに、大きく、かつ、深いものだった。
特別の「呼吸」をすることで、なんとか、自分を保つことが出来る、と感じるくらい、それは、「大きな哀しみ」だったのだ。
空は快晴で、十二月の早朝だというのに、とても、暖かい。
やがて、東側から、オレンジ色に輝く「まぁるいお日様」が、昇ってきた。
ここは、「琵琶湖」の湖岸といっても、周遊の遊覧船が着船する場所なので、ほとんど「港」のように見える場所なのだ。
「朝日」は、遊覧船を背景に、輝きながら、昇り始めていた。
でも、そこで、わたしは不思議なことに、気がついた。
昇ってくる「ヒカリ」は、絶対に「朝日」なはずなのに、わたしには、「夕日」にしか、見えないのだ。
光り輝きながら、少しずつ昇って来る「朝日」が、わたしには、どうしたって、「夕焼け」に染まって、寂しく沈んでゆく「夕日」に、見えてしまっていた。。
ーーそんなわけはない。これは、朝日でしかないはずなのに。目がおかしくなってしまったのかな。。
わたしは、何度も、目を擦ってみたり、綴じたり開けたりを繰り返してみたり、してみた。
でも、何も、変わらない。
「寂しく沈んでゆく夕日」に見えてしまう「ヒカリ」と、湖水から発して来る「大きな哀しみ」とが、一体となって、わたしに、「何か」を訴えかけて来るのだ。。
ーー意味が、わからない。
ホテルの朝食の時間が近づいていたので、もうそろそろ、戻らないといけなかった。
何度も振り返りながら、「朝日」に見えることを期待したのだけれど、その「ヒカリ」は、最後まで、わたしには、「これから沈んでゆく夕日」のようにしか、見えなかった。
ーー「琵琶湖」は、いったい、わたしに、何を、訴えているのだろうか。。
ホテルに戻って、食堂で、「朝食」を摂りながらも、わたしのこころは、晴れなかったし、「不思議なきもち」から、解放されることも、無かったのだ。
「すべては逆さま」。。
そんな言葉が、こころのなかで、浮かんでは、消えた。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
その日、わたしは、ホテルをチェックアウトしてから、「三井寺(みいでら)」という古いお寺を訪ねることにしていた。
「三井寺」は、正式名称は、「長等山園城寺」と云い、壬申の乱で、大海人皇子に敗れた大友皇子の皇子の大友与多王が、父の霊を弔うために 創建したお寺だとされている。
壬申の乱は、六七二年に起きた、「古代日本最大の内乱」だから、少なく見積もっても、千三百年以上前に創建されたお寺が、そのはじまり、なのだ。
わたしは、そこに在る、「三井の霊泉」を、観たいと、思っていた。
「三井の霊泉」とは、天智、天武、持統の三天皇の産湯に使われたとされている「湧き水」なのである。
「三井寺」は、広大な敷地に、長い歴史に培われたさまざまな建物が点在しているお寺である。
小高い丘の上に在るお寺なので、「琵琶湖」を見晴らすことも、出来る。
新幹線の時間まで、可能な限り、わたしは、歴史的なものに、触れてみたいと、願っていたのだった。
快晴だから、きっと、「琵琶湖」も見渡せるだろうと期待して、丘の上までも、登ってみようと、思っていた。
最寄り駅は、「三井寺」である。少し歩くと、三井寺の入口の「大門」が、見えて来た。荘厳な造りである。
急な階段の参道を登り、三井寺に入る。
かなり大きくて古い、立派な「金堂」の裏手にある「三井の霊泉」は、わたしにも、すぐに見つけられた。
古代から在る、その「御水」は、「ぽこぽこ」という「音」を立てながら、湧き続けていた。。
千三百年以上も前から、きっと、同じ「音」を、その場所で、鳴らしているのだろう。。
時間も早かったし、紅葉の季節がすでに過ぎたお寺を、訪ねるひとたちはとても少なかった。
だから、その場所にも、ひとは、誰もいなくて、「霊泉」の「音」だけが、あたりに、響いていた。
わたしは、そっと手を合わせた。
「天智天皇」と「天武天皇」。。そして天智天皇の娘であって、「天武天皇」の妻だった「持統天皇」という、三天皇の「産湯」に使われたと伝わるその「霊泉」は、「三つの井戸」ということで、「三井寺」の名称の由来ともなっているのだった。
わたしは、「天智天皇」と「天武天皇」すなわち「中大兄皇子」と「大海人皇子」の「霊」に向けて、「鎮魂のおもい」を、伝えた。
それは、長い間、想っていた「願い」が叶って、「安堵」出来た「瞬間」だった。
何故なら、わたしは、子どものころから、ずうっと、わけもなく、「その時代のこと」に惹かれていて、「中大兄皇子」や「大海人皇子」、そして「額田王」にまつわるおはなしが、とても好きだから、だ。
気が済んだわたしは、今回の、もうひとつの目的である「琵琶湖を見る」ために、丘の上まで、ゆっくりと、坂道を、昇ることにした。
と、そこで、また、わたしは、自分に、「大きな哀しみ」が襲いかかって来るのを、感じはじめたのだった。
「かいなんの地」を探し当てて、「大神神社」を訪ねたときには、「祝福」しか感じなかったのに、今回の「琵琶湖訪問」からは、どうしてか、「哀しみ」しか、感じとれないのだった。
たしかに、「縁」を感じる「土地」だと思えるのに、「哀しみ」しか、受け取れない。。
いったい、ここでは、何があったというのだろう。。
歩いて歩いて、「琵琶湖」が眺望出来るという、高台にやっと、辿り着いたわたしは、愕然とした。
お天気は「快晴」なのに、「琵琶湖」の上の辺りにだけ、「霧」が立ち込めていて、「うみ」が、全く見えないのだ。
抜けるような青空の下に、市街地は、すっかり見渡せるのに、である。
ーー「琵琶湖」は、隠れてしまった。。
ーーわたしに、見られたくなかったのだ。
わたしは、そう、感じた。
わたしに、「大きな哀しみ」を伝えて「隠れてしまった琵琶湖」。。
やがて、わたしは、今回の「旅」が教えてくれることが、ようやく、分かって来たような、気がしてきた。
それは、
ーー気づくためには、何度も来なくてはいけない。
そうして、
ーーこの気づきには、時間が、かかるのだ。
と、いうことだった。
「大神神社」を訪ねたときのように、「簡単」ではないのだ、ということが、わたしに、はっきりと、伝わって来たのだった。
この土地では、きっと、何か、「とても哀しいこと」を、「かつてのわたし」は、経験したのだろう。
それを、理解するには、いろいろな「角度」から、さまざまに「視点」を変えて、この土地を訪ねなければ、決して見えては来ないのだ、とわたしは、改めて、感じていた。
そのことを、理解出来たことに、きっと、今回の、「うみ」を感じる「旅」の「意味」があったのだ、とわたしには、思えた。
この土地は、「たましいが呼ぶ土地」のひとつであるということだけは、この地に立っただけで、「おもい」が押し寄せてきたことによって、すでに、しっかりと、わたしに、伝わっているのだ。
ーーわかった。また、来るよ。
わたしは、丘の上から、霧で隠れた「琵琶湖」に、そう、語りかけた。
静かに手を振って、丘を降り、わたしは、新幹線に乗るために、京都に向かった。
人生は、一筋縄ではいかない。簡単にわかることなんて、やっぱり、そうそうは無いんだと感じながら。。
「琵琶湖」を見晴らすことは叶わなかったけれど、わたしには、丘に登れる元気も気力も、まだ、自分に残っていたことが、なんだか無性に、嬉しく思えた。
ーーわたしは、まだ、ちゃんと、生きているんだ。
そう、実感出来たのだった。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
「大きな哀しみ」をわたしに向けて来て、そうして、「隠れてしまった琵琶湖」は、わたしに、何を伝えたかったのだろう。
今回の「旅」で、わたしは、自らの「感受性」だけをたよりにした「こころの旅」に、「再会」出来たことを、感じていた。
「気づきの旅」は、やはり、まだ、終わってはいなかったのだ。
京都に戻り、新幹線に乗ったわたしは、窓の景色を眺めながら、
ーー今度は、いつ、来れるかな。
なんて、もう、そんなことを、考えていた。
「琵琶湖」は「うみ」だから、とてつもなく、広い。
わたしを「祝福」してくれる「たましいが呼ぶ土地」は、「うみ」のどこかに、きっと、隠れているのだ。
ーーかくれんぼみたい。
わたしが探し当てることを、「うみ」は、きっと、待っていてくれる。。
ーー気長に行こう。
わたしは、そう、思った。
この「気づきの旅」は、わたしが生きている限り、まだまだ、ずうっと、つづくのだ。
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