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【翻訳】中野剛志・博士論文第4章「我らの科学を人間的に」(1/3)

第3章はこちら。
中野剛志・博士論文第3章「プレ古典派経済学としての経済ナショナリズム」(前半)


訳者まえがき

本記事は次の論文の第4章にあたる 4. 'Let Your Science Be Human' を翻訳したものである。
Nakano, Takeshi. (2004) 'The power of nations: theoretical foundations for economic nationalism', Unpublished PhD thesis, University of Edinburgh.
The power of nations: theoretical foundations for economic nationalism (ed.ac.uk)

ただし、博論提出の後に似たタイトルで独立した論文が掲載されている。論文として引用する際には、こちらを確認した方がいいかもしれない。(残念ながら閲覧には有料登録が必要である)
Nakano, Takeshi. (2006) ‘Let your science be human’: Hume's economic methodology, Cambridge Journal of Economics, Volume 30, Issue 5, September 2006, Pages 687–700,
https://doi.org/10.1093/cje/bei102

イギリス経験論で知られる哲学者デイヴィッド・ヒュームの政治経済学を整理した前章に続き、今回翻訳した「第4章」はヒュームの社会科学の方法論を検討したものとなる。我が国における動向も含め、ヒュームの研究には、「ルールに従う」人間の行動やいわゆる「黙約」(convention)の議論を、安易にゲーム理論を適用することで処理する暴挙がしばしば見られるが、本章の第1節で展開される主張はまさにそのような個人を分析単位とした「個人主義的」なヒューム解釈とは相容れないものである。その根拠のほとんどはヒューム自身の著作であり、虚心坦懐に原典と格闘することの重要性を読者に再認識させるとともに、原典から遊離した空疎な解釈を再生産する一部の研究者の姿勢に対しては反省を促すことになるかもしれない。

もっとも、この章はヒュームに限らず、社会科学一般に対してもその方法論を再検討する契機と論点を提供してくれている。その意味で、この章を日本語で読める形にして、いつでもどこでも手元のスマートフォンでアクセスできるようにする試みは、社会科学を学ぶ人にとっても哲学を学ぶ人にとっても大いに実りのあるものとなるだろう。

なお、本章のタイトルはヒュームの『人間知性研究』にある一節である。原文を引用しておこう。

“Indulge your passion for science…but let your science be human, and such as may have a direct reference to action and society. Abstruse thought and profound researches I prohibit, and will severely punish, by the pensive melancholy which they introduce, by the endless uncertainty in which they involve you, and by the cold reception which your pretended discoveries shall meet with, when communicated. Be a philosopher; but amidst all your philosophy, be still a man.”
「科学に情熱を燃やせ......ただし、その科学は行動や社会に直結するような人間的なものにするべきだ。晦渋な思想や深遠な研究は、私が禁止し、また厳しく罰することとする。それらは思案に明け暮れる憂鬱をもたらし、尽きることのない疑念に没入させ、そしてその見せかけの発見が伝えられた際にも冷淡に受け止められるからだ。哲学者であれ。ただし、その哲学の渦中にあってもなお一人の人間であれ」

以下、訳文について。

  • 原注は【】によって文中に示し、当該パラグラフの下部にその内容を載せた。

  • []は訳注、あるいは訳者による補足、しばしば原文。

  • イタリック体は基本的に太字で表したが、頻繁に出現して文面が見苦しくなる場合などは避けた。

第4章 我らの科学を人間的に

本章の目的は、現在、ヒュームの「社会科学」の哲学と見なされているものを検討することである。ヒュームの思想において、方法論[Methodology]は最も重要な側面の一つとなる。人間本性論[A Treatise of Human Nature]は認識論、心理学、倫理学の著作と見なされているが、彼の最大の関心は間違いなく方法論に関わるものであり、というのも彼は道徳的行動の本性を解明するための新しい方法を提案しているからである。これは『人間本性論』の副題「道徳的主題に推論の実験的方法を導入する試み」[An Attempt to Introduce the Experimental Method of Reasoning into Moral Subjects]に示されており、実験的方法[今日における「実験的」ではなく、哲学で用いられる「経験的」の意味に近い。経験と観察を重視する姿勢はニュートンの影響とされる]は『人間本性論』の第3巻で道徳的主題に適用されている。また、ヒュームが『人間本性論』第1巻の議論を発展させた『人間知性研究』も、方法論を中心とするものとみなすことができる。【1】[本章は]主に『人間本性論』と最初の『研究』からヒュームの社会科学の哲学を明らかにする。

【1】ヒュームは『人間本性論』の失敗[売れ行きが芳しくなかった]をその書き方に原因があるとしており、最初の『研究』(EHU viii-ix)では、「この著作の第一部を一新する」ことを図った。

以下の議論では、第一に、人間の行為と社会に対するヒュームの理解を取り上げ、これを象徴論[symbolism]として特徴づけることにする。彼の社会思想における重要なポイントは、シンボリック相互作用[社会学者ブルーマーが提唱したシンボリック相互作用論を念頭に置いている]が人間の心の中に「観察者」['the spectator']という利害関心を離れた視点を生み出すということである。第二に、社会科学における一般化された説明方法についてのヒュームの議論を検討し、社会の現象を理解する上で、社会科学者の姿勢に公平無私な観察者[原文 the disinterested spectator。なお、アダム・スミスの公平な観察者は the impartial spectator]という客観的視点の考え方を適用していることを示しつつ、ヒュームの社会科学に対するアプローチを解釈的[interpretive]なものとして捉えることができると論じる。【2】第三に、ヒュームの歴史研究の方法と社会科学との関係を検討する。

【2】解釈的アプローチでは一般化された説明ができないと主張する論者もいる(例えば、Little 1991: 155)。しかし、著者はヒュームが解釈的アプローチで一般化を目指していることを論証したい。

1. 観察者

ヒュームは人間について次のように仮定している。人間とは、すなわち、地球上の他の動物とは異なり、例えば衣食住に対してそうであるように、本来的に自らの必要と欲求[needs and wants]を独力で満たすことができないほど非力な存在である、というものだ。人間は必要を満たすために互いに協力しなければならない。言い換えれば、必要を満たすべく社会を形成しなければならない。限定的な利他性と資源の希少性によって、人々が欲求を満たそうとする試みには衝突が生じ、その結果、社会の形成が実質的に阻害されることになるが、このような自然状態[natural situation]に対する打開策は「人為的な」['artificial']美徳として正義を導入することである。ヒュームの正義に対する関心とは、[私有]財産の安定的な所有に対する関心なのである。端的には、以上がヒュームの提示した財産権[property rights]の起源に関する説明となる。

このような説明は、次のようなヒュームの個人主義的な解釈を助長した。すなわち、利己的な本性を持つ人間は、自然状態[the state of nature]において自分の欲求を満たすためにルールに従い、合意や契約を結ぶ、というものである。しかし、ヒュームにとって利己的な個人からなる原初状態[the original state]は、ルールの意味を強調するための分析ツールに過ぎない(Forbes 1975: 70)。ヒュームは人間を社会的動物とみなし(EHU 8-9)、自然状態は単なる虚構であることを明確に提示している(EPM 189)。故に、ヒュームが個人主義の姿勢に固執していると機械的に結論づけるべきでない。さらに、ヒュームはルールに従う義務についての個人主義的な説明を拒絶している。確かに、利己的な二人の個人は自己利益を合理的に計算することによって、互いに自制する合意に達することがあり得るが、「しかし、社会が大人数になり部族や国家[のスケール]にまで発展するとこのような利益からは遠ざかり、そのルールに違反するたびに無秩序と混乱が生じることを、狭隘で窮屈な社会におけるほどには容易に理解できない」['but when society has become numerous, and has encreas'd to a tribe or nation, this interest is more remote; nor do men so readily perceive, that disorder and confusion follow upon every breach of these rules, as in a more narrow and contracted society'](T 499)。[利己的な個人が二人ならば、ルールに従わなかった場合の不利益を互いに理解して、自己利益の追求を抑制する合意に到達し得るが、部族や国家のような大集団ではその前提が成立しないという意味]

それでは、社会の成員はどのようにしてそのルールに従うようになるのだろうか。ヒュームはルール遵守行動に対して、個人主義的な説明ではなく、今日でいうところの「象徴主義的」な説明を提案している。約束[promises]に関する彼の議論はこのことを示している。

人が約束すると言うとき、その人は事実上、それを実行する決意を表明している。それとともに、この言葉の形式を用いることによって、失敗した場合には二度と信用されないというペナルティを自らに課している。決意とは、約束を表明する心の自然な行為である。しかし、その場の単なる決意に過ぎないとしたら、約束は従来の動機を宣言するだけで新たな動機や義務を生み出すことはないだろう。約束とは人間の慣習[conventions]であり、それは次のような場合に新たな動機を生み出すものである。すなわち、特定の事象においてお互いの振る舞い[conduct]が保証され得ることを通じてある象徴記号が定められたならば、人間の営み[human affairs]はより一層お互いの利益のために行われるはずだということを、経験によって理解した場合である。これらの記号が定められたあと、それを用いる者は何人たりとも直ちに自らの約束[engagement]を履行するために自らの利益によって拘束され、もし約束したことを履行しないならばもはや信頼されることは決して期待してはならない。(T 522)
[翻訳に苦慮した。コンマを打つルールが現代とは異なり、複数通りの解釈が想定される。そのため、ここでは原文を丸ごと載せることを決断した。When a man says he promises any thing, he in effect expresses a resolution of performing it; and along with that, by making use of this form of words, subjects himself to the penalty of never being trusted again in case of failure. A resolution is the natural act of the mind, which promises express: But were there no more than a resolution in the case, promises wou'd only declare our former motives, and wou'd not create any new motive or obligation. They are the conventions of men, which create a new motive, when experience has taught us, that human affairs wou'd be conducted much more for mutual advantage, were there certain symbols or signs instituted, by which we might give each other security of our conduct in any particular incident. After these signs are instituted, whoever uses them is immediately bound by his interest to execute his engagements, and must never expect to be trusted any more, if he refuse to perform what he promis'd. (T 522)]

約束の言葉とは、社会的に定められた「象徴記号」である。ヒュームの人間本性の科学にとって、「約束の義務は社会の利益のために発明されたもの」['the obligation of promises is an invention for the interest of society']であるから、言葉の形式それ自体がわれわれの行動を統制する力を持つことは不思議でも不可解でもない(T 524)。

デュルケームが後に「禁忌や神聖なものの概念と所有権[ownership]の概念との親和性」を強調したように(Durkheim 1992: 143)、ヒュームは言葉や制度、とりわけ財産[所有物、property]が持つ象徴的な力(ジョン・オースティンの言葉で言えば「発話内効力」['illocutionary force'])には聖性[sacredness]が必然的に伴うと論じている(EPM 199-201)。この点で、聖なるものの制度と[財産のような]世俗的な制度には違いはない。ただし、迷信と社会的公正[social justice]には違いがあり、「前者は無分別で無用で厄介なものだが、後者は人類の福利と社会の存立に決定的に不可欠なものである」(EPM 199)。ヒュームが聖なるものと世俗的なものとの間よりも、むしろ秩序と無秩序、あるいは公益と無益との間に境界を引いている理由は、市民の制度[civil institutions]が神聖な性格を備えているからである。次の一節で、ヒュームは資産譲渡[財産の移転、the transference of property]についてデュルケーム的な人類学的説明をしている。

その行動に類似性を想定するならば、不可思議な財産の移転に思い至ることだろう。そして、このような説明が妥当であることは、人間が現物の引渡しが実行不可能な際に、空想を満たすべく象徴的な引渡し[a symbolical delivery]を発明したことからもわかる。このため、穀物倉の鍵を与えることは、その中にあるトウモロコシを引き渡すことと理解される。例えば、石[石造りの建物]と土を与えることは荘園[Manorには領主の館と領地の意味がある]の引き渡しを意味する。これは大陸法[civil laws、ローマ法などを起源とする慣習法。common Law の英米法に対して言う]や自然法則における迷信的実践の一種であり、宗教におけるローマ・カトリックの迷信に似ている。ローマ・カトリック教徒キリスト教における計り知れない神秘を表現し、神秘を模した蝋燭、修道衣、しかめっ面[a taper, or habit, or grimace]によってより心に訴えかけようと努めたのと同様に、法律家や道徳学者も同じ理由でそれらの発明に走り、同意による財産の移転について同様の手段で自分たちを納得させようとしてきた。(T 515-6)[ちなみに、ヒュームはこの無神論的な態度によって妨害に遭い、大学の職が得られなかった]

ヒュームの制度についての象徴主義的な分析は、シンボリック相互作用論の理解と結びついている。つまり、象徴が人間の行動を、予想される他者の反応へ方向づけるというものだ。ヒュームの相互作用論は慣習[conventions]についての議論に表れている。慣習とは、

将来の規則正しい行動を確信させるものである。それを期待することによってのみ我々の節度や自制[moderation and abstinence]は成り立つ。それと同様に、言語も約束なしに人間の慣習によって徐々に確立されていき、また同様に、金銀も[約束なしに]交換の一般的な尺度となり、その百倍の価値のものに対して十分な支払いとみなされる。(T 490)[ここでは、ヒュームがいわゆる黙約をどのように捉えていたのかが示されている。原文を引用しよう。gives us a confidence of the future regularity of their conduct: And 'tis only on the expectation of this, that our moderation and abstinence are founded. In like manner are languages gradually establish'd by human conventions without any promise. In like manner do gold and silver become the common measures of exchange, and are esteem'd sufficient payment for what is of a hundred times their value. ]

慣習とは、象徴を通じて形成される相互的な行動期待のパターンである。社会的に共有された相互的な行動期待のパターンは、想像力を刺激することによって「共感」['sympathy']の感情を生み出し、人間の心の中に「観察者」(EPM 224, 254)、「同時代人」['contemporaries'](EPM 217)、あるいは「一般的な不変の基準」(EPM 229)の視点を提示する。ヒュームは公平無私な観察者の視点が社会的交流によって生じると考え(EPM 186, 221)、正義の起源をそれに求めている(EPM 191)。[以上のことから]ヒュームの道徳論はシンボリック相互作用の理論に基づいている。すなわち、シンボリック相互作用を通じて発達した観察者は、個人の心の中に道徳的判断の公平無私な視点を持ちうるのである。

ミードはヒュームの理論をヴィルヘルム・ヴントの理論と同様、連合心理学[観念と観念、観念と感覚の結びつき(連合)を基礎として心的活動が形成されるとする心理学の立場。イギリス経験論の影響も受けている。]とみなしている(Mead 1934: 18)が、ヒュームの「公平無私な観察者」という考え方は、G・H・ミードが「一般化された他者」['the generalised other']と呼ぶものと酷似している。ミードによれば、人間はシンボリック相互作用を特徴とする社会に生まれ、主要な象徴の使用を通じて他者の役割を担う方法を学ぶ。この役割分担は自己を発達させる。つまり、一般化された他者の立場から自己を見る能力を発達させるのであり、それは他者の期待の観点から自己の行動を規定することを意味する(Mead 1934: 319)。【3】

【3】アルフレッド・シュッツの「同時代世界」についての現象学的分析は、ヒュームが「慣習」と呼ぶもののことだと考えられる(Schutz 1972: 176-207)。[シュッツは、主体が直接体験する「直接世界」と、主体にとって同時代に並存している「同時代世界」の二つに分けて他者を捉える。同時代世界に存在する他者をシュッツは「同時代人」と呼び、昨日会ったが目の前にはいない友人や、面識はないが友人の話に出てくる人物は同時代世界に属する同時代人である。直接世界から離れれば離れるほど同時代人の類型は抽象化され、一般的な同時代人の類型に近づく。]

したがって、ヒュームの人間本性の科学は象徴主義的であると言える。人間は本来的に社会的動物であり、慣習[conventions]、あるいは相互的な行動期待の象徴的なパターン[symbolic patterns of reciprocal expectations of conduct]を共有し、それに基づいて互いにコミュニケーションをとる。シンボリック相互作用は、人間の心の中に「観察者」や「一般化された他者」という公平無私な視点を生み出し、客観的な判断を可能にする。客観的判断に関するヒュームの社会理論を念頭に置きながら、次節では、社会の分析方法で彼がこの人間本性の理解をどのように発展させたかを見てみよう。

[以上、第4章第1節の翻訳。第2節、第3節が続く]

引用文献

  • Durkheim, Emile. (1992) Professional Ethics and Civic Morals , Cornelia Brookfield (trans.), London and New York: Routledge. Durkheim, Emile.

  • Forbes, Duncan. (1975) Hume's Philosophical Politics, Cambridge: Cambridge University Press.

  • Hume, David. [この博士論文におけるヒュームの引用文献は全て第3章の最初の原注に載せたため省略]

  • Little, Daniel. (1991) Varieties of Social Explanation: an Intr oduction of the Philosophy of Social Science, Boulder: Westview Press.

  • Mead, George Herbert. (1934) Mind, Self and Society: From the Standpoint of a Social Behaviorist, Chicago: the University of Chicago Press.

  • Schutz, Alfred. (1972) The Phenomenology ofthe Social World, London: Heinemann Educational Books.

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