すべてが、青になる
「作曲している可能性もあるな」(吉増剛造)
はっとした。
詩人が路上でウォークマンを何台もならべて音がギャーギャー鳴っているなか、銅板をハンマーで無心に叩いている。
そのときに言った言葉が「作曲している可能性もあるな」だった。
端的に言えば、かなり狂った行動をしている。が、彼にとっては「詩」を書いている行程の一貫なのだと思う。そうやって自分には「意味」のある行為であっても、他人からすれば、まったく「意味」を見いだせないことをすることもまた、「詩」の営みなのかもしれない。
ともあれ、この「作曲している可能性もあるな」という言葉が僕のなかで不思議にずっと鳴り響いている。
先日、クラシック音楽の祭典「ラ・フォル・ジュルネ東京」に行ってきた。いまをときめく藤倉大のステージと、リストのピアノ協奏曲を聴きにいった。そのときに、「ディファレント・トレインズ」という曲を聴いたのだが、この曲は汽車が走っている音を弦楽四重奏で表現したものだ。そして、ときおり人の話している声をサンプリングしたものが流れ、その声をまたヴァイオリンが模倣し、メロディとなっていく。
このときにまた、僕のなかで「作曲している可能性もあるな」という言葉が浮かんできた。ああ、なるほど、人の言葉(音声)も、「意味」を剥奪してしまえばただの「音」になるのだった。
僕たちが話している言葉も、実は「音楽」になりうるものだ。
「詩」を書くとは、そういう言葉が持っている「音楽」をとりもどす行為でもあるのかもしれない。萩原朔太郎に導かれて、詩の世界に入ってきたが、こういう瞬間にふと「詩は言葉の音楽である」ということの意味が少しわかってくるような気がする。
おそらく、より「詩」を求めていくのならば、こういう感性を鍛えていくことが必要なのだろう。本質を、根源を、求めていく旅だ。
*
今回の詩「すべてが、青になる」はかなり難産な詩だった。
この詩も、先に言った意味とはちがうが、「音楽」になりたがった詩だ。
また、新しいところに行ける気がする。
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