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Who are you?

「あなたは人に迷惑をかけて生きているのだから、人のこともゆるしてあげなさい」インドの教えらしい。

「人に迷惑をかけるな」日本の教えとは、大きくちがう。

よそものの僕が大きな荷物をかかえ、満員電車に座っているのがなんだかいたたまれなくなり、席をゆずった。善意というより自分の中の問題でゆずったにすぎなかったのだが、その男は好意として受けとり、お礼に「謎のつぼみ」をくれた。

なんだかわからないそのつぼみを文字で検索しようにも、その検索するための言葉が思いうかばず、写真検索に切り替えた。その答えは曖昧ではあるがおおむね「ハスの花のつぼみ」のようだ。ハスといえば仏教には欠かせない花。神聖な国の神聖なものゆえ、花開くとなにか良いことが起きるのかもしれない。

しかし、カチカチに固まりところどころ黒ずんだそれは、水や愛情のたぐいを与えて育てても、開きそうもない。開きそうな信頼がいっさいない。この場は「ありがとう」で乗りきって、あとで捨てようにもなにかしら脅しめいた神々しさすらあるので、捨てたことによるバチが怖くて捨てられない。

ああ、すごく迷惑だ。

それでもこのつぼみは「あなたは人に迷惑をかけて生きているのだから、人のこともゆるしてあげなさい」の「迷惑をかけて生きている」の部分なのかもしれないと思ったら、案外、暴力的な教えなのかもしれないと思った。

その疑いはインドにいるあいだずっと引っかかっていて、ジャイプールの歩道でとある兄妹喧嘩を見たときも思い出した。

妹をはいつくばらせ馬乗りになる兄。泥まみれになった妹を、木の枝でしばき、馬に「走れ」と命令しているように見えた。

その光景に目も当てられず「おれにできることなんかない」と自分に言い聞かせ、見てみて見ぬふりで通りすぎた。

実際、彼らがなにに動かされ、なにが起きているのかなど、想像することもできない。実態などわからない。ただそれが「ここは日本ではなくインドである」という一点だけで、最悪な想像をしてしまい、その場をそそくさと立ち去った。一歩一歩前進する自分のこの足が、腹立たしく思えた。

彼の根底にあるものが「迷惑」と自覚したものでいて、それでもその「迷惑」すらもふりかざしてしまえる教えなのだとしたら、それを信じているのなら、信仰そのものから否定しなきゃならないように思えてならなかった。



謎のつぼみ


姉との喧嘩を思いだした。

近所のスーパーのデザートコーナーの前でもめた。なけなしの金で買うのは「プリンであるべきか、ゼリーであるべきか」でもめた。ゼラチン由来からくる胸ぐらのつかみ合い。その場での決着とはならず、勝敗は座敷での決闘にゆだねられた。

姉のその暴れっぷりたるや、サツマイモを荒らしにきた秋口の猪のようだった。罵声をあびせ、腕をふりまわし、終いにはアゴにみごとな回し蹴りを入れられ、その拍子でふきとんだ僕は、背中で障子をやぶり、天井をあおぎみた。

「なんて迷惑な人なんだ」

昨日もプリンを買ったのに、なんでゼリーを許してくれないんだろうかこの人は。そのあたりから漠然とした「力なきものは理不尽に勝てない」ということを悟り、また、つかまれた胸ぐらにグッと入り込んできた手の甲の骨の痛さが消えず、波風をたてないように意見を合わせるという技をおぼえた。


2020年、世界中でコロナウイルスが流行した。パンデミックにより、目の前で世界が分断していった。

感染者数の増減に市民は一喜一憂し、封じるための法改正に躊躇し対策が後手になる行政。「いついつには収束する」とたかをくくる政治家と専門家。治療より患者の隔離を優先する医療。

歴史の話でしかなかったことが、急に現実としてあらわれ、自分の「信じること」を信じるしかなくなった。

他人が信じることを信じる人たちは戸惑いながら、自ら選択し、それを疑い、もう一度考えなおし、また選択した。自分もまたそうで、やむなくそうしているとき、同じ分だけみんなが自分の選択をしていることを不思議に思った。

その結果、考え方の違いが如実にみえた。

東京の感染者数はそのとらえかたから人口の比例以上に増えていき、その一方で田舎に帰省する事ができなくなり、ある村では県外ナンバーの車に石を投げ、ある村では県外から帰ってきた息子のせいで家族ごと村八分にされていた。

去年までは同じ人類、同じ日本人としての輪の中にあったものが、みるみるうちに裂かれていき、それが恐ろしくてたまらなくなった。

僕の故郷も田舎であり、もちろん帰ることは禁止された。

当時、姉は出産したばかりで、ワクチンを打たず孫に会いに来た親父に激怒したらしい。愚痴電話の中で、親父のことを「信じられない」と拒絶していて、僕も打っていないことを言いだせなかった。

僕としては、ワクチンを打つほうが怖かったから打たない選択をしたのに、おなじ家庭で育った姉がここまで違う考えかたをもっていて、あれほど喧嘩してきたのに、見たことのないほど怒っていた姉がそこにはいて、それがパンデミックの正体に思えた。それは愛する子供を守るために選択したことで、その胸中を考えると必要性や意味が理解できるぶん、共感せざるを得ないぶん、なおのこと複雑な気持ちになった。

仮に嫁に「ワクチン打とうよ」と持ちかけていたら打っていたかもしれない。自身に子供が生まれていたら、コロナで大切な人が死んでいたら、打っていたかもしれない。

自分の選択の疑いがはれず、よく迷う。

昔、姉にいわれた「自分はどこにある」という言葉が頭から抜けない。シンプルゆえの、なんという重み。考えすぎる性分から意見を両面から見るくせがあり、「波風をたてない」を盾にした他人の判断をみてから決めるなどという卑怯な一面を見抜かれたようで、いわれた時、血の気が引いた。

ゼラチンくらいで喧嘩していれたら、アゴに回し蹴りが入ったくらいなら、よかった。ついにはそんな深いところに怪我を負わせるようになったのだ。

「自分はどこにある」

しかし、ひいては弟の実態をなんだと思っていたのかというはなしだ。そんなことをなにも疑わず、その絶対といわんばかりの力強さで言いのけるあなたは、さぞご立派な自分とやらをお持ちなのだろうな。そうでなければ説明がつかない。片づけられない。

しかし、スパッと切られた傷口があまりにも綺麗で、怒っていることすら伝えられなかった。

15年経って、いまだに考えてしまう。確かに自分ってなんだ。

「おれは誰だ」


渡りきれると信じてうたがわない犬



家電量販店で買いたいair podsの種類を店員にききたいのに「そんな事調べればわかるだろ」といわれそうで声がかけられなかったり、マクドナルドのフライドポテトにケチャップを付けたいのに「家のケチャップ使えよ」と言われそうで注文できない自分がいる。

そりゃあ「自分はどこだ」なんていわれるような気もしている。

しかし、いくら考えてもそれは自分の本心で、それが自分なのだと伝えてもたいてい理解されないか、そんなのは自分じゃないと否定される。なら自分がどこにあるなんてわからない。

その一方で、めちゃくちゃに疲れている時なんかは、周りの目も、恥も、気の小ささすらも気にせずに思い浮かんだ言葉を、なんのフィルターにも通さず口に出したする図々しさも持ち合わせている。それは本心だと言われる。

確かに感情まかせのそれは、本心は本心なのであるが、それを自分の人間性だと思いたくない事もまた本心なのである。ここまでくると、わからないのではなく自分の本心を本心とする勇気がないだけかもしれないが、それでも「家のケチャップ使えよ」と言われそうで注文できないこれが、僕だという証拠がどこにある。そう否定してしまう。

「ありのままでいい」

それを優しさで言っているのはわかる。その考えに疑う余地がないほど賛同していて、他人には言い放ててしまえるが、そこに人生を照らし合わせてしまうと、納得できないこともある。結局、無意味という意味に納得させられるようにつとめてみても、上手くいかず、また迷った。


あの時、波風をさけて過去に片付けた「本心」めいた自分。

自分の正体は過去でしかない。なにを思い、なにをどれほど行ってきたかでしかない。だとしたら、波風をさけ、自分をしてこなかった報いで分からなくなってしまったのか。

確固たる自分を持っている姉を見るたびに「落ちこぼれたなあ」と
「落ちこぼれでなにが悪い」の2つが浮かぶ。

この世界には「今」しか存在していなくて「過去」も「未来」も存在していない。その中でおれはどれ程の「自分」を過ごせているのだろう。思いかえせば、未来への恐れや不安、または憧れ、そして過去のデータや傷ばかり記憶しているように思えてくる。今を生きていない。存在しない自分を生きている。

そんなおれは誰なんだ。



こういう思索をいったい何度繰り返せばいいのか。

なんどもなんども重ね塗りして、紙がふやけるほど、ふでの摩擦で穴があくほどにくりかえし、この作業は「必要なプロセスなんだ」と言い聞かせる。それが希望であり続けられるように。

そうしているうちに「しるかよ」と思いはじめる。「もうわかんねぇよ」と匙をなげる。哲学という学問がある限り、彼らが代わりに悩んでいるのだから、到底僕にわかるわけもない。

結局、わからないと言い張るのなら、わからないままなのだろう。わからないというより、わかれないのだろう。

確固たる自分なんてものはなく、変幻自在でしかない。

今更、絶対の自分なんてものを提出されても、積み重ねた淡い日の迷いがそれ受け入れらるはずもなく、このままずっと自分をとらえられない。多分ずっと。それを承知のうえで出来上がり「つつある」が、手も足もでない前進ともいえないなにかを形成していき、人間としての大前提のない者のまま「それでもあと一回だけ考える」が連続していくのだ。それを信じるしかないのだ。




右の手の中には謎のつぼみがひとつ。

善意だと信じて疑わない彼のひとみは「あなたはいつも人に迷惑をかけて生きているのだから、謎のつぼみを授けるわたしのこともゆるしてあげなさい」といっているようだった。

指先でつぼみの先端を押してみたり、なでてみたりしながら、ふと考える。このつぼみは迷惑に思われていることを想像したことはあるのだろうか。

もし自分になりつつあるものを信じてみるのであれば、彼の、彼自身のまっすぐな目も信じなくてはいけなくなり、やっぱり捨てられない。

伝わらないことをいいことに日本語で、この自分で「迷惑だな」とつぶやいた。


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遠藤
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