鎌倉時代に書かれた小倉百人一首の撰者 藤原定家の日記「明月記」の原本が現在まで伝わってきた経緯を調べると、定家の子孫である冷泉家が守り伝える中で驚きの過程を経ていた
書物を守るために尽力した意外な人物が!
徳川家康は藤原定家のファンで冷泉家に伝わる書物の価値を上げ、徳川秀忠は天皇を巻き込んで明月記を保管する冷泉家の蔵(御文庫)ごと封印し、天皇の許可がない限り開けられない正倉院状態にすることで守っていた
たとえ貴族の子孫の家であっても継承は容易ではなく、昭和55年には個人レベルでの家の維持は不可能になり売却・取り壊しの危機に。あの京セラの稲森和夫さんなどの寄付も得て家を存続。現存最古で唯一の公家邸宅として残り、ブラタモリの京都御所の回に登場していた
藤原定家が「書物を守る」並々ならぬ決意に至った出来事とその後の日々の努力、子孫の代でふりかかる数々の困難、強運とも呼べるような奇跡や外部からのアシストによって ”何とか” 大事な書物とそれを守る蔵、貴重な公家の邸宅は守り伝えられ続けていた
冷泉家が存続する奇跡 瀬戸内寂聴さん語る
2010年開催「冷泉家 王朝の和歌守展」
展覧会 サポーターとしてのコメント
とても分かりやすい説明
◼️YouTuberスーツさん冷泉家紹介
藤原定家の書物を守ってきた冷泉家とは
公家の家格としてはどの位置にあたるか
書物を守り伝えてきた冷泉家の歴代当主
冷泉家は藤原俊成・藤原定家を始祖とする家で「和歌の家」として伝統を守り続けてきた。始祖から現在までこれだけの当主の努力によって受け継がれてきている
大切な書物を守る冷泉家の蔵(御文庫)
【時系列】数々の奇跡・ファインプレーで守られた「定家の日記 明月記」と「冷泉家の蔵」
【鎌倉時代】実家の火事による藤原定家の書物を守る決意
【室町時代】応仁の乱による火災の危機
【室町時代以降】藤原定家の書が大人気に
【安土桃山~江戸時代初期】藤原定家の書の人気・散逸の危機
「時の権力者(徳川家)と権威(天皇)」によって守られる
【江戸時代中期~末期】大規模な京都の火災 2度も奇跡で免れる
【昭和】冷泉家個人での維持限界・学術公開に初めて踏み切る
【平成】冷泉家の学術調査一区切り 冷泉家の展覧会開催
【令和】冷泉家後継者決定 国宝級の藤原定家直筆の書発見!
藤原定家が並々ならぬ決意で書物を残すに至った背景とその努力や工夫とは
実家の火事のショックで書物を残すことを決意
定家19歳の頃、父の五条京極邸に住んでいた
他家からの火事で家が消失し父俊成の蔵書が
一瞬にして消滅するという恐ろしさを体験
明月記 治承4年(1180年)2月14日記述
(この年は源頼朝が挙兵した年)
勅撰和歌集撰者 俊成の蔵書は当時相当なものだったはず
この火災の50年後の定家70歳の頃に、
火事のことを思い出し涙したことを日記に記すほど
ショックな出来事だった
明月記 寛喜3年(1231年)8月19日記述
書を残すための藤原定家の努力
①たくさん写本を作る
おそらくいつ焼かれても良いように収集や借用した
書籍を家人達に書写させて副本の作成を行った
②蔵を厳重に造る
定家は後年に、蔵を厳重に造らせた
③書物のメンテナンスをストイックに行う
毎年のように蔵書を陰干しにして風を通し
虫に食われたり黴たりするのを防いでいた
大事な書状もしっかり残す!再利用して日記を清書
定家は72歳の出家時に日々書いていた
日記「明月記」を全て清書した。
その際、それまで人生で保管してきた書状を選別し、
日記をその書状の裏面を利用して清書
日記と書状の両方を後世に残す工夫をしていた
(これを紙背文書という)
現在でもとんでもないレベルのリバーシブル文化財
冷泉家の書物の現在の各所蔵先 藤原定家の日記「明月記」の例
冷泉家に伝わる書物の中で特に重要な明月記
この明月記が部分ごとに各所に所蔵されているように、明月記以外の書物も全て冷泉家に伝わっているわけではなく、様々な経緯を経て各所に所蔵されている
タモリさん冷泉家邸宅訪問(京都御所の回)
ブラタモリ2019年(平成31年)9月7日放送回
「京都御所〜天皇の住まいはなぜこの場所だった?〜」
武家政権により500年近く同じ場所にあった京都御所
明治時代に天皇が東京に移り、御所を支えた公家の屋敷も東京に引っ越した結果、京都にはほとんどの公家屋敷が残らなかった。そういった中で唯一完全な姿をとどめて宮廷文化を伝えている冷泉家を紹介
▼冷泉家が伝える宮廷文化を紹介
◼️参考文献
国宝「明月記」と藤原定家の世界 藤本孝一著
(2016年)
日本の名家 洋泉社MOOK
(2015年)
◼️現在もたくさんの人の支えが必要な冷泉家
参考情報
◼️明月記 現代に伝わるまでの詳細
定家が日々日記を記してから、清書、編纂、伝来、昭和55年に冷泉家の蔵から救出、国宝になるまで
◼️ 藤原定家の個性的な字から書にはまる
徳川家康も、小堀遠州も、松平不昧公も、
歴史研究家の磯田道史先生も、藤原定家の書のファン
フォントになった定家の字 独特の書風 定家様
◼️調べて分かった藤原定家の日記が残る超奇跡
天皇の書物すら失われる中、この時代の本人が書いた日記原本が残るのは稀で奇跡。道長と定家の日記の違い、宮廷儀式に奮闘する定家と息子 為家が垣間見られる記録
◼️藤原定家は平安時代の書物を残した人
百人一首の功績はほんの一部 日本の古典充実に大貢献
平安時代の書物の写本を多数作り、後世で現存最古となる写本を多数残していた定家。どんな写本を残しているか
■更級日記 藤原定家筆 の詳細ギャラリートーク
定家の字がなぜ独特なのか、その奥深い背景・意図
書物を後世に残すストイックな姿勢が垣間見られる定家の残したメモ
平安時代の書物や和歌を残すために必要だった出世意欲・人間くささ
展示されていた更級日記のページは平安時代の女の子が
源氏物語に胸キュンしているところ
■明月記 藤原定家の父俊成 臨終の様子が美しい
藤原定家が日記を詳細に残していたので分かる父俊成の臨終の様子
800年の時を思わせないほど臨場感あふれて画が浮かぶ