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【書評】ドン・デリーロ『ボディ・アーティスト』
静かな物語。そして切ない。登場人物は少なく、情景を描くのも最低限に絞られているが、心理描写というより、思考そのものを丁寧に言葉にしている。読みながらも、読み終えてからも、言葉にならない想いで胸がいっぱいになる。
さびれた海辺に立つ古く大きな家。レイとローレンという夫婦の、何気ない朝食の光景から物語は始まる。話のかみ合わないところからすると、二人の年は離れているか、ちょっと倦怠しているのかもしれない。レイは一人自動車で出かけるが、後に、遠く離れたマンハッタンの、元妻の部屋で短銃自殺を遂げた姿が発見される。かつて映画監督だったレイの3番目の妻が、約30歳下のボディ・パフォーマンス・アーティストであるローレンである。
レイの死後も、海辺の家にとどまるローレン。あるとき、上階の使っていない寝室に、見知らぬ小柄な男が住み着いているのに気づく。問い詰めても何も語らず、夢遊病者のようで、どうやら時間の感覚を持ち合わせていないらしい。ただ、聞こえた会話を記憶し、上手に真似をする能力に長けている。まるでレイが乗り移ったかのように言葉も声色も再現するこの男から、ローレンは生前のレイの姿を引き出そうとする。
愛する者を喪った悲しみを、たとえ巧みな心理描写をしたところで、煩わしいだけだ。感動であれ、喪失であれ、心が動くということは、容易く言葉で表すことができるものではない。沈黙するのみ。その沈黙が、この物語の静謐さである。
その一方で、人は愛する者の死に直面したとき、言葉を求めるのかもしれない。割り切れない怒りの言葉かもしれないし、混乱する気持ちを整理する言葉かもしれない。だが、最も欲しいのは、絶対に叶わないのだけれど、もう一度聞きたい、語りかけて欲しいという、愛する者の言葉ではないか。
ローレンは、自宅に住み着いていた男を「タトル先生」と勝手に名付け、生前のレイの言葉や、何気なく交わしていた夫婦の会話を引き出す。そして録音し、何度も聴き直す。いくら声色まで真似するのが上手でも、声そのものはレイではなく、その男の地声である。それでも求めずにいられないのは、愛する者の言葉であったからか、またはいま生きている、生身の人間が語る言葉だからか。
物語の終わり近くで、ローレンはボディ・パフォーマンスの舞台に立つ。レイが亡くなってからの自分の生活を上演したもので、一人で何役もこなす。最後に演じるのが、言葉を持たず、録音された音声による断続的なモノローグで語る裸の男だ。これは明らかに「タトル先生」である。記憶したレイの言葉をレイ本人のように再現する「タトル先生」を、舞台ではローレンが再現する。それは、もう一度聴きたい、自分に語りかけて欲しいと願う、愛する者が語った言葉を、自分の身体に取り込むことであり、死者の言葉を生きることだ。絶対に叶うことのない希いを、このように実現するローレンは、まさに本書のタイトルどおり、ボディ・アーティストなのだろう。
あらゆる言葉は、死者のものである。人は、DNAに埋め込まれた言葉や、母親の胎内で覚えた会話を思い出しながら言葉を話すということはない。親を筆頭に、生まれてからの生育環境で耳にする言葉を、覚え、再現している。子どもの言葉は、語彙も、使い方も、口調さえ、親をはじめとする環境に影響される。そんな親や周りを取り巻く者たちの言葉も、元をたどれば生育過程で身につけてきた。それらは先人から脈々と受け継がれてきた言葉であり、死者が使っていた言葉である。過去、現在、未来という時間を超えて、言葉という大河を漂いながら、われわれは生きている。言葉こそ、生命なのだ。
一度手放したものを買い直した11年ぶりの再読は、時を超えて、言葉の力を感じることになった。文庫判の表紙カバーは「タトル先生」からの発想でエゴン・シーレなのだろうが、ハードカバーの冷たい背中のほうが、ローレンの切なさをよく表していて、いい。
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