「ことば」という大河にたゆたう——ヘルマン・ヘッセ『シッダールタ』、ガブリエル・ガルシア=マルケス『コレラ時代の愛』など
拝啓
一日の気温差はいまだに激しいものの、快い風がそよぐ時節になりました。窓を開けると金木犀の香りが漂ってきます。金木犀はあざとく香るという人もいますが、秋をしみじみ感じます。
あなたが脳内バカンスを堪能している間、こちらは信州伊那とりんごの香りに心を奪われ、その後は詩歌という大海原に漕ぎ出していました。あなたが教えてくれた、ヘルマン・ヘッセ『シッダールタ』は、車中で揺られながら読むつもりで持参したものの、過ぎゆく車窓に目を奪われて、手に取ったのは旅の10日後でした。
ヘルマン・ヘッセ。『車輪の下』『デミアン』など名作ぞろいで、いつかは読まねばと意識していたものの、読んだことがあるのは中学校の国語教科書に載っていた短篇『少年の日の思い出』だけ。『シッダールタ』も、作品の存在は知りながら、あなたと同じく、仏教の創始者である釈迦の伝記であろうと勝手に思い込んでいました。
驚きました。行きつ戻りつ読んだので、時間はかかりましたが、文字どおり寝食を忘れました。そして、いつもと同じ後悔の念を抱くのです。もっと早く読めばよかった。でも、これも「呼ばれる読書体験」かもしれません。
主人公シッダールタは、あくまでも釈迦の出家以前の名を関した別の人物。バラモンの子であり、若くして知性に長け、沙門となって身体の苦行を求めるものの、道は見えてこない。そんなときに林園で覚者ゴータマと出会い、反発し、独り道を求めて歩き出す。しかし、遊女に溺れ、私腹を肥やし、博打に狂ううちに自らを見失う。途方に暮れたシッダールタは若かりし頃に渡ったことのある川辺にたどり着く。そこで時間も、人の心も栄枯盛衰も超えて流れ続ける川から幸せは学べるのだと気づき、大河の渡し守となる。
物語の最後で、かつての同志ゴーヴィンダが、渡し守をしているシッダールタに、長い月日でさぐり求めて得られたものは何かと尋ねます。シッダールタは、君はあまりにもさぐり求めすぎる、さぐり求めるから見出せないのだと答え、その意味を説明します。
さぐり求めようとするな。まず目の前にあることを見よ。そして、思想を成す「ことば」というのは内にひそんでいる意味をそこなうものであり、ゴーヴィンダが老いても心に平安が訪れないのは、「ことば」が多いからだと指摘します。
その刹那、小林秀雄を思い浮かべました。
先入観や解釈が、見るという行為のどんな妨げになるか。人は「ことば」にした途端に、すぐ見るのをやめてしまう。それはシッダールタやゴーヴィンダが真理を求めて彷徨い歩いたときも同じ。悠久のときを超えて流れ続ける大河を見て、ちっぽけな己を知り、「ゆく河の流れは絶えずして」のように、まさにすべてのことは移ろいゆくことを観る。それを実践したシッダールタは安らぎのあり方を悟り、心の平安を得るための何かがあるはずだと求め続けるゴーヴィンダは、眼も心も閉じている。
川は古来、人間の一生に喩えられてきました。荒れ狂う獰猛なところもあれば、流れに気づかないほど静まり返ることもある。狭まれば牙をむき、広がれば穏やかな表情を見せる。清らかでありたいと願うも濁ることもあり、危うい激流はかえって川底を掘って流れがよくなる。途中でどんな紆余曲折があろうとも、大海へ流れ出れば、もう何もとらわれるものはありません。
そんな時間の流れと川の流れを重ね合わせて思い浮かべたのは、ガブリエル・ガルシア=マルケス『コレラ時代の愛』でした。
20世紀前半の南米コロンビア。名が高く人望も篤かった医師フベナル・ウルビーノが不慮の事故で亡くなります。悲しみに暮れる未亡人フェルミーナの前に静かに現れた海運会社の社長フロレンティーノは、これで障害が消えて愛し合う2人が結ばれるときがきたと胸いっぱいになります。フロレンティーノがフェルミーナを待ち続けたのは、51年9か月と4日。72歳になっていたフェルミーナは76歳のフロレンティーノを半世紀前と同じく、拒絶します。そんな2人の来し方行く末を、内戦とコレラが途切れることのない時代を背景に、コロンビアの西部を流れる大河マグダレーナとともに描く物語です。
生涯独身を貫き、たった一人の女性を愛し続けることはできるのか。あの日、あのとき、あの場所で、二人は会わなければ、見知らぬままでいたのだろうか。また、あの日、あのとき、あの場所で、会わなければ、二人は幸せな結末を迎えたのだろうか。もう一度、あの日の二人に戻れるならば、いまのように一緒にいない毎日を選ぶだろうか。
そんな20世紀末のラブソングを彷彿させる物語ですが、二人は10代で出会い、20代で離れ、70代で再び出会う。物語だからこそ想像し得ることであって、この時間感覚を実体験として受けとめることのできる人は、そうはいません。
ようやく電報は使えたものの、まだ電話ですら通っていない19世紀後半のコロンビアにおいて、フロレンティーノとフェルミーナの幼い愛を育み、そして壊したのは手紙であり、「ことば」でした。
郵便局で電信技師の見習いとして働いていたフロレンティーノは、宛名は分かるが住所不明の電報を届けるためにある男を訪ね、その娘であるフェルミーナと出会います。毎晩のように恋する想いを書き綴っているうちに、最初の手紙は愛の言葉を重ねた辞書のようになったほど。苦心を重ねてお互いに手紙を交わせるようになったものの、世の常で父親が介入し、父娘は2年ほど地方の親類を訪ねてまわる旅に出ます。そこは郵便局勤めのフロレンティーノですから、電信技師のネットワークを使って滞在先を突き止め、手紙を交わし続けます。
ただ、その手紙に技巧をこらし、実体を伴わない幻想を相手に抱かせてたのも「ことば」でした。旅から戻り、フロレンティーノが手紙の一節で記した言葉で実際に語りかけた途端、フェルミーナはとんでもない思い違いをしていたことに気づくのです。そこからフロレンティーノの不幸な51年が幕を開けたのです。
半世紀後、医師フベナル・ウルビーノの亡き後、傷心のフェルミーナを救ったのも、フロレンティーノの手紙でした。当初は過去を掘り返し、抒情たっぷりに想いを連ね、口説き落とすためにしたためていました。しかし、その文体を捨てて、新たな好奇心、新たな秘密、新たな希望を目覚めさせるための手紙に変えたのです。
人間は、「ことば」なしには思考できず、生きていくこともできません。「ことば」は相手を生かしもすれば、殺すこともできます。たしかにヘッセの小説では、ことばが真理を見いだすための妨げになっているとあります。小林秀雄も、言葉が眼の邪魔になるといいます。しかし、ガルシア=マルケスの小説では、ことばによって愛が育まれ、傷つき、さらに癒します。
仏教でいう「知恵」は、世間をわたる術です。知識、教養、学問ともいえます。それに対し、自分というものにとらわれず、自分の見方による自分以外のものにもとらわれず、本質を観る道をを仏教では「智慧」といいます。
「ことば」は決して悪者ではありません。まっすぐ観ることを妨げるのは、こうあるべきだ、こうなるはずだという思い込みや決めつけ、先入観ではないか。そんな己を超えて、何事にもとらわれず心を解き放ち、本質を観ることができるとき、「ことば」は障害となることなく、人を生かし、染み込んでいく。
「ことば」は決して発明できません。オリジナリティある文章や詩を書いたとしても、「ことば」そのものは先人が使っていたものを借りているだけ。対象や時機をみた組み合わせによって、その美醜や妙味が決まります。荒っぽい言葉が胸を打つこともあれば、素朴な物言いが逆に怒りを招くこともあります。われわれは先人から脈々と受け継ぐ「ことば」という大河にたゆたっているだけです。
ああ、「ことば」っていいな、手紙を書きたいな。心からそう思いました。それを考えさせる、2冊の読書でした。
まだまだバカンスは続くのかもしれません。ただ、ときおり出没しているところを見ると、もしかしたら旅先から便りが届くかも知れません。手紙というのは、待つことを前提とする通信手段です。返事はいつでも構いません。さすがに51年は待てませんが。
敬具
既視の海