だふにあ

1967年生まれ。過酷なサラリーマン生活を経て退職「真の豊かさ」とは何か?どうやったら「幸せ」が作られるのか? そもそもなぜ「幸せ」を求めるのか?等々、日々の生活の中で感じたことや思いを綴っています。東洋思想哲学、易学にふれて30年。近親者以外は占定しない「売らない占い師」です。

だふにあ

1967年生まれ。過酷なサラリーマン生活を経て退職「真の豊かさ」とは何か?どうやったら「幸せ」が作られるのか? そもそもなぜ「幸せ」を求めるのか?等々、日々の生活の中で感じたことや思いを綴っています。東洋思想哲学、易学にふれて30年。近親者以外は占定しない「売らない占い師」です。

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エネルギーを補充する方法「大器晩成」

エネルギーを補充する方法は大きく分けて二つあると私は考えています。 ひとつは以前よりお話している大地や自然などから得ること。 大きな空をゆったりと流れる雲をながめて過ごす時間。 こころが落ち着き、リラックスしたとき、エネルギーが補充されているのだと私は思います。 もうひとつは、だふにあ線コントロールにより、あなたの中の基準線を引き直したときに、不安、不満というエネルギーロスを止め、足るを知り、感謝の方向に反転し、負の要素は次なる何かの「サイン」とプラスに向きを変え、エネル

    • 大木も人も年輪を刻んでいく

      現在の占術について、私がとても残念に思うのは 一つの手法を多用しすぎることにあります。 例えば、生まれた日時で推察する占術を「命」といい 「気学九星」「四柱推命」など、私が「命」に用いる 「紫微斗聖数」など、生まれた時点で運勢をみます。 この生まれた時点で、人生のすべてを決定するのは やはり無理があると思います。 もちろん、それぞれの手法とも生まれた時点のある 程度の傾向は確かだとは思います。 しかし、人生の時間は流れ、変化していきます。 それに対応すべく、各占術とも時

      • 西に金 商売繁盛酉の市

        しばらく、少し占いについて書いてみようと思います。 難しい面もあるので、飛ばしてもらってもよいかもしれません。 エネルギーの根本的流れは「陰陽」の変化から起こり この「陰陽」が基になり「八卦」が考えられました。 日本では「気学九星」がよく使われますが、正確にいうと 東洋思想のなかにこの「気学九星」はありません。 「八卦」を基にして日本が独自でアレンジされたもので あり、しかし、実にうまく作られていると思います。 この「八卦」の考えは、玄空飛星派風水や八宅風水などの 基本

        • 「シンプル」は全て捨てることではない

          話を本筋に戻していきましょう 確か、小さな変化をおこすために 「一日ひとつ捨ててみましょう」というお話までしたかと思います。 捨てることで、空間が生まれるだけでなく 「捨てる」つまり余計なものを極力なくす 「習慣」が大事だと私は思うのです。 それがいつしか物だけでなく、人や関わりなどにも 浸透していくと「シンプル」に生きることが見えてきます。 以前お話した風水の関係からみても、 「シンプル」に生きることは エネルギーの流れを整えて良い状態にし 運気の流れを見えやすくして

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        エネルギーを補充する方法「大器晩成」

          未来は予想できるのか⑤(完)

          未来は予想できるのか? 結論から言えば、予想はできない。 町に奇跡が起こったことは、皆が「町全体がよくなって欲しい」と 願っていた様々な人の思いのエネルギーの流れがあったからこそ 前進していったのだと思う。 そこへ行くまでの過程が必ずあり その結果で未来が創られていくこと その移り変わりを自分が感じられたことが とても「宝物」になった。 居心地のよい椅子は、かえって「時に人を腐らせる」 私は町を去ることにした。 次に進むべきことを探して、人生100年時代に今50代で

          未来は予想できるのか⑤(完)

          #未来は予想できるのか④

          ある日、この寂れた町にテレビ局が取材にくる 散歩的な番組は、ほとんど店の開いていない 商店街を撮影してくれた。 当時、私は町内会の仕事をさせてもらっていた。 放映日の翌日、遠い関西の人からある電話が 町内会に電話が掛かってきた。 聞けば既に70歳、関西のとある駅前で こだわりの「たい焼き」を作っているが 「自分の最後をその町に賭けたい」 最初は少しおかしい人なのかと思ったが 話をしてみると非常に熱い方だった。 目の前のことを実直にやる。 お店を借りる段取りからお手伝

          #未来は予想できるのか④

          未来は予想できるのか?③

          皆が自分の人生を省みることなく 日々「多忙」の中で時間が経過していく 何かおかしいと思いながらも 変える思考さえ与えない流れ。 年老いた母を介護することはできず 老人ホームに入れた。 毎日同じ窓から、同じ景色は どんな頑丈な人間でも、崩壊を始める 私は逃げるようだった。2~3か月に 1回程度30分ほど顔見せる程度だった。 母は2年弱でこの世を去った。 同じころ妻も病気になり、 残された実家とその中に あるたくさんの残存物を見て もう限界だった。 辞表をだした。 今

          未来は予想できるのか?③

          未来は予想できるのか?②

          昔ガラスのメーカで研究員だったころ の話だが、ガラスは外側の温度と 内側の温度の冷めかたに差がでると 膨張の差が出て「歪」が生じ自分で割れてしまう。 多分、このころの私は外面は平気な顔をして 頑張っているように見せかけていたが、 内心は病んでいて、でも辞める勇気もない 状態で苦しみ続けていた。 ガラスのように「歪」で割れる寸前だったと思う。 もう辞めることにしよう。 どうすれば辞めれるか? 確かなことは、それは誰かがやってくれたり、 進めてくれるわけではない。 「全部自

          未来は予想できるのか?②

          未来は予想できるのか?①

          「想像していなかった未来」という面白そうなテーマが 出ていたので、番外編として書いてみようかと思います。 「想像していなかった未来」は何か「ぽこんと」 急にどこかからやってきたように思えるかもしれないが そんなことは無いと私は思う。 題材としては、思いもよらない「現象」やあの時は 思いもしなかった「ファンタジック」なイメージを 求められているのかもしれませんが。。。。 「想像していなかった未来」が起こるのは そこまでの道のりにたくさんのものが積みあがった 結果であり、直

          未来は予想できるのか?①

          小さな変化から試してみよう

          人は本能的に安全、安心な環境を確保しようとする。 恐怖をどこか遠くにやりたいので「変化」を嫌う。 でも今日から少し考えだけをかえてみてはどうかな。 自ら変化を創り出してみる。 まず、「他人がどうだと気にする」のはやめよう。 上手くいっている人となんだかうまくいかない人がいて、 どっちが変われるか? 落ち着いて考えてみよう。 日々の生活に満足し、上手くいっていると思っている人なんて、 「変える必要がない」からいつまでも変わらない。 やがて過去の栄光にしがみついたりして、置

          小さな変化から試してみよう

          年筮について

          ここしばらく、内面の意識的なことについて書いてきましたが 少し余談で「易」についてお話をしましょう。 一応「易者」ですので・・・ 「エネルギーの流れ」や「運」についてお話をしてきましたが 私が筮竹を使って「運」を見るのは、年に1回のみとしています。 これを「年筮」といい、次の年の1年がどういう運気になるか? 「導き」を学ぶタイミングとしています。 ここ数年、私と妻の易を立てますが、ほぼほぼ得られた「卦」 に従い行動しますので、当たるといえば当たっていることには なりますが

          年筮について

          書き込まれたロジックに疑問を持つ

          「秩序」とは、正義と悪の線引きをして、 人が社会という集団を形成するなかで、 うまくやっていくために、約束という ロジックとして書き込まれてきたのだと思います。 この線引きは、時として時代や環境により、 都度変化し引き直されてきました。 つまり、正義と悪は人の世の中の状況で 勝手に決められている「正しそうにみえて いい加減」なものでもあるのです。 「清濁併せ持つ」という言葉があります。 濁を「悪」としてはじくのではなく 濁に仕方なく陥る人もいるということを 理解することが

          書き込まれたロジックに疑問を持つ

          強い意識を持つのは難しい

          人の頭の中は面白いもので、一度命令を出されると人は それを真面目に遂行しようとします。 傾斜の上から落としたボールは下へ転がり加速していく。 つまり一度スイッチが入ってしまうと、なかなかその概念から は抜け出せず、なんか違うなと感じながらも意識して止めない 限りその行動をつづけてしまうようにできています。 自分が生まれた時点で社会というものが出来ていて、 その時代に合った価値観を親や周りの人に教えられ、 それが正しい、正解だと刷り込まれ、命令されてきたのです。 既に書き

          強い意識を持つのは難しい

          無為自然とは

          現在まで「自然の摂理」に従って生きることをお話してきましたが、 実際はとても難しいことだと思います。 それゆえに、失敗を繰り返しながら、やがて物事が「当たり前」や 「自然」になっていく。 とかく、多忙な世の中はすぐに答えを求めすぎ、この失敗を繰り返す 成長の過程を待っていられないのだと思います。 老子の最初は「無為自然」ということばで始まります。 無為とは作為的でないこと。何かずるいことを考えたり、 効率を重視したり、老子の後半では知恵をもつことさえ 否定する部分も出てき

          無為自然とは

          失敗の先にあるのは成功ではない

          内面的な取り組みは、何かをしたから一回で変わることはなく 必ず上手くいかない状態を何度も繰り返すことになります。 そう必ず失敗をするのです。 しかし、重要なポイントは、その後の行動にあると私は考えています。 何故失敗したのかを真摯に受け止め、考えられるかどうかに かかっていると思います。 何かのせいにしたり、くよくよしていても何も生まれない。 どこが悪かったのかをよく考えること と同時に再度チャレンジしてみること。 でも、次もまた失敗するのが現実でなのです。 その次

          失敗の先にあるのは成功ではない

          「こせい」の時代

          組織や集団の中にいても、「こ」という自分を これからは見つめる必要があると私は考えます。 「こ」といっても自己中心主義ではありません。 幽体離脱のごとく、客観的に自分を見てみること 他人との比較ではなく「自分自身で自分を」見てみる。 そんなことが重要になってくるのではないかでしょか。 そこで「コセイ」が重視されると思いますが、 それは「個性」ではなく、「己性」だと思うのです。 「己」はつまり「おのれ」であります。 よく「個性的な人」などと聞きますが、この言葉は 既に他と

          「こせい」の時代