【知られざるアーティストの記憶】第63話 抗がん剤治療以外の選択肢、S医院
Illustration by 宮﨑英麻
*彼は何も遺さずにひっそりとこの世を去った。
知られざるアーティストが最後の1年2ヶ月で
マリに遺した記憶の物語*
第9章 再発
第63話 抗がん剤治療以外の選択肢、S医院
今回の突発的なT大学病院受診は、普段の定期的な検査受診とは別に、彼の不眠の訴えに応じるためのものであったが、主治医のH医師による血液検査も念のために行われた。このときの結果は、奇妙なことに赤血球の値が目に見えて改善していたが、懸案の血小板値は相変わらず悪化を続け、もう崖っぷちのところまで来ていた。
「神宝塩は確かに、赤血球は増えるみたいだけど、私の場合は血小板は増えないみたいだ。」
彼はマリの目を見ながら淡々と分析をした。
今回はH医師の他に、入院中から彼をサポートしていた精神科医の診察も受け、これまでとは違う睡眠導入剤を処方された。しかし、彼の不安は晴れる様子がなかった。
この受診の直後に、彼は突然身辺整理を始めた。片づけること自体は悪いわけではないけれど、彼が自ら終わりに向かって歩き始めている気がして、マリはどうしても抵抗を感じたのだ。マリに止められて、彼は片付けを一日限りでやめたのだが、再発を見据えてキュッと固まってしまった覚悟は彼の心に居座ったようだった。マリはこの頃から、彼の後姿ばかりを見つめているような寂しさを感じ始めた。
この手紙の冒頭には、2つの情報が書き込んであった。一つ目は、10月12日に一旦キャンセルした中医整体のタケイさんの予約を12月13日に取り直したこと。もう一つは、市内にある抗がん剤を使わないガン治療を行うS医院の住所と行きかた、連絡先、診療日・時間などの情報であった。
S医院のことは、以前に中医足つぼ師のメイが「こんなところもあるよ」と情報をくれていた。約10年前に最愛の母親をガンで亡くしたメイは、当時はまだ中医学にも、抗がん剤を使わないガン治療にも出会っておらず、病院の言うがままに呆気なく母親を亡くしてしまったのだ。その無念と後悔を胸に、もしも自分がガンになったときのために調べておいた情報であった。
母親の闘病中に、せめて抗がん剤治療以外の選択肢があることを知っていればとメイが後悔したことを聞き、マリは再発に怯えている彼にS医院の話をしたのだった。彼もそのとき、少しの興味を示したように見えたので、マリは手紙でその詳細を伝えた。
さて、新しく処方してもらった睡眠導入剤も、彼にはすんとも効かなかった。薬を飲もうが飲むまいが、毎晩一度は入れた睡眠から深夜0時前後にはじき出されてしまうと、もう再び眠ることが叶わず、午前4時には起き出してしまうのが常態化していた。ますます恐怖に取り憑かれた彼は、どういう経緯だったか、漢方を試してみることを思い付いた。マリは家から三男の保育園に行く途中にある漢方内科を彼に紹介し、彼自身に電話をかけさせた。
「悪いけど、乗せてもらうよ。そうじゃないと私は死んじまう。」
と、指定席である助手席を彼に譲った後部座席の三男に、彼は車に乗り込みながら声をかけた。三男のやわらかな優しさは、あまりあるほどに彼を包み込んでいた。
★この物語は著者の体験したノンフィクションですが、登場人物の名前はすべて仮名です。