松木秀さんと現代川柳
どういうわけか最近川柳がマイブームになっていて、友人の内山さんが持ってくる川柳本を飽かずに読んだりしている。歌人と川柳の関係の深さというのは「短歌ヴァーサス」の頃からなんとなく意識はしていた。
ぼくの知っている川柳作家と言えば、なかはられいこさんとか川合大祐さんくらいだったけど、短歌をやりながら川柳をやったりする人は、荻原裕幸さんもそうだったと思うし、最近ではこの前とりあげた平岡直子さんも川柳集を出したりしていたので、なんとなく親和性があるのかなと思っていた。
ぼく自身は他ジャンルに越境することは極力避けている。ただ、自分の歌がマンネリというかテンプレに陥らないように、川柳や俳句や現代詩、ときどきは詩論を読むこともある。
最初にぼくが川柳に惹かれたのは意外とその内山さん自身の句だったかもしれない。
この句は、内山さんの短歌・川柳の作品を含めて、案外最高傑作ではないかという気がする。ぼくが知っている数少ない川柳の中では、いい感じで「思い」がつまっている。「もう少し夜が欲しくて」までは通常の「人恋しさあるある」なのかなと読者を思わせて、いきなり「課金」がでてきて、「えっ?この『夜』ってそういう意味だったの?」と気づく。
言語化するのはとても難しい。作者は夜がもう少し欲しい、まだ寝たくない気持ちだった。それに対して、ゲームに課金するような手段で、寝る時間を伸ばしているという解釈もできるし、「夜」自体がなにかガチャガチャのようなおもちゃのなかに入っていて、課金するとぽんと出てくるアイテムみたいな状態だったという読みも考えられる。
いずれにしてもわたしたちは、「課金」という言葉で、課金ではなくて「夜」の意味づけを根底から揺るがされるような気がするのだ。こういう揺るがしこそ川柳の魅力なのかもしれない。「夜」は短歌にもよく使われる情景ワードなので、それがひっくり返されたときの爽快感はなんとも言えない。
川柳のなかはられいこさんがこんなことを「短歌ヴァーサス」の第三号(2004年)に書いていた。
ぼくは川柳の会も俳句の会もでたことはないのでなんとも言えないのだけど、砂時計を「人生の残り時間」として読むような歌は、たしかに短歌にもあった。
これは実際の砂時計とも読めるけど、「人生の残り時間」の含意を感じる読みも可能性が高いと思う。この1首だけを持って、川柳と短歌は相性がいいなんて言うつもりもないけれど、なんか短歌をやっている人から見ると、川柳がより近しく、俳句が全く違うものにみえる体験をする瞬間が確かにある。
ちょっと今回は俳句まで包含して語れるかは自信がないのだけど、短歌と川柳と俳句の違いと言えば、テレビで有名な夏井いつきさんの「個人の感想」がとても面白い。
全部見ると20分強あるので、ぼくが驚いたことだけを要約して書くけど、窓の外に風が吹いている、というその「風」については、俳句の人は「夏の風になったな」とか「若葉風かな」とか「青嵐かな」というふうに季語にまず意識が向くそうだ。
夏井さんたちのおっしゃるとおり、短歌の場合の道具立てでは、「風」がどんな季節を表しているかなんてあんまり意識したことがない。ぼくもときどき歳時記から言葉を借りることはあるけれど、風の季節なんてそもそも考えたことはないかもしれない。穏やかな風か、強い風か、みたいなもので心象を表す道具として僕の場合は使うかも。
砂丘からしずかに風が降りてきて許されていくかなしみがある(西巻真)
人の歌をこうだ、なんてあんまり断定できないから自分の歌の場合を出すけど、確かにこの「風」が夏の風か春の風かは、あんまり関係ないと思う。「しずかな風」であれば季節は問わない。変な話異国の情景のほうがいいくらい。やはり短歌は「感情の器」というくらいなので、どんな気持ちを盛るかをまず意識して、そのために「道具」を用意するのだと思う。
川柳はどうなのか。やっぱり俳句から見ると、全く違うものらしい。写生句というのはあるけど、写生川柳というものはなさそうだ。そういう意味では、面白い川柳は面白い短歌に似ていると言えば似ているのかもしれない。
そして、こういう話をしていると、あっ、と思う人がふと浮かんでくる。
松木秀さんだ。川柳も作り短歌も作るという松木さんは、第一歌集『5メートルほどの果てしなさ』をはじめて買って以来、ずっと読者になっている。当時、確かウェブサイトか何かで、一度川柳になったものが、77をつけてそのまま川柳になっているケースも紹介されていた。
ぼくが覚えているのは、
は、最初、確かどこかのウェブサイトで川柳として発表されていたのを見たのである。
それが『5メートルほどの果てしなさ』では、
という77をつけた歌として登場した。さっきの夏井さんの話だと、川柳と俳句の違いは575のあとを読者に投げて想像させるのか、それとも全部説明するのかという違いもあると言っていたので、松木さんはこれを575のみの川柳としても、77を細かく言って短歌としても成立するように作ったということになる。
また、川柳(とくに古川柳)の特性は、穿ち・おかしみ・軽みと言われていて、これらが入っていないと川柳としての良さがないと言われていたらしい。
ほんとに、言われてみれば松木さんの短歌は穿(うが)ちまくっている。うがった見方、なんていい方があるけど、「そんなふうに人はものを見ないよ」ってツッコミたくなるくらい「うがった見方」を入れまくっているから、キティちゃんの歌なんかはぼくは何も言えずに顔面蒼白になった。
こういう「穿った」見方は笑えるし、なるほどなるほどと気づきもする。「軽み」はわからないけど、「おかしみ」もある。
しかし、松木さんは「おかしみ」を出すことにあまり関心がなかったのかもしれない。特に社会への批判的な視点はものすごく辛い。とにかくカラい。
これらの歌は、風刺というよりなんだかニヒリズムに近いと思う。嘘まみれの自分、言葉に対する不信のようなものが渦をまいている。
特に印象に残ったのは、次の2首だ。これらは近いところに配置されているのだけど、違うことを言っているように見えて、まったく同じ構造で書かれているように自分には感じられる。
よく「偶像の破壊のあとの空洞の偶像」と、なにかのトートロジー(同語反復)のように読む読み方があるのだけど、この歌は、松木さんがはっきりと見てとったものについて歌われていると思う。
「飛び込み自殺用の鉄道」も「偶像の破壊のあとの空洞」も、松木さんがかなりうがった視点で見つけ出してきた素材だ。本来は飛び込み自殺用の鉄道なんてないし、「偶像の破壊のあとの空洞」なんてあんまり意識しない。
それを社会批判と言う形で無理やり持ってくるのが松木流の凄みだ。
これらの歌は、松木さんの自身の内面すらも皮肉っぽく見てしまう、というある種の自己破壊願望がもたらしたものだと思う。「死」の歌はぼくも好きな歌なのだけど、なにかその字にあまり魅入ってはいけないような気はぼくはするのだ。
第2歌集RERAは私が一番好きな松木さんの歌集だけれど、なんというのか、
安定した「いつもの松木さん」の裏側に、とんでもない「引きつった笑い」を秘めているような気がしてならない。
これはいつもの松木さんの穿った見方を楽しめる。
ぼくが思わず引きつったのは、死について歌うときの松木さんのこういう虚無とも言える歌だ。
これは川柳的な「穿ち」というより、それこそぼくの好きな仙波龍英の「墓地裏の花屋」の痛烈な母への挽歌に似ていると思う。
何か、「死」を直視をしたひとのみが到達できる境地とでもいうのだろうか。全く甘みのない痛切な虚無のみが横たわっている感じ。
そしてこの「虚無」は現代川柳の何にも似ていないのだと思う。
現代川柳は「なにか読者の前提を揺るがす」のだけど、決して虚無的ではない気がする。むしろ多彩で面白い。
そんな現代川柳が到達した地点と松木さんが見ている地平は、おそらく全く違うような気がするのだ。それは短歌が自己を見ようとすればいくらでも凝視できる詩形だからかもしれない。
本日の参考文献!
松木秀さんの歌集、すこし欲しくないですか?
現代川柳、すごく面白いです! おすすめ本です!!