「家族」のひっこし
話のまくら
本を買い始めるとどうしても「取捨選択」が問題になる。
話題の歌集はなるべく手に入れるようにしているけれど、そもそも購買力には限りがある。「買っても読まないのもなあ」と思って、買い控えることが最近増えた。そもそも詩歌の本が置いてある書店は限られているので、多くはネットで購入することになる。
取捨選択で買ってしまうとどうしても初動で「話題」ではない本は買い控えることになってしまう。「話題」の本を買ってがっかりと言うこともある。本来短歌を仕事にするなら、「全部買う」が一番正しいのだけど、部屋のスペース的にもそれは難しい。
大体歌集は高いし、高い理由も知っている。単純にいまの短歌ブームのような感じで、ベテランの歌集のマーケティングをするような仕組みがないのだと思う。それがあったとしても、人生の滋味みたいなのを売り出して、現代社会にどれだけ受け入れられるかはわからない。
なんかブームに乗れる人と、乗れない人の格差を考慮してないブームだとすると、わたしたち「ブームにのれない歌人の先行き」は相当厳しい。
現代短歌と言えば、みんな若書きの第一歌集ばかりが話題になる。読者としてある程度年齢を重ねると、ほんとに読みたいのはもっと長いスパンでかかれた歌集だったりする。二〇代の青春歌集は「みずみずしい」というテンプレでまとめられがちだ。四〇代、五〇代、六〇代で歌を続けている歌人にはもっと違う形容詞があるだろうと思う。
その人の一〇年や二〇年が読みたい。そんなスパンの歌集がもっとあってもいいように思う。確かに若い人の中では何か変化が起こっているのかもしれないが、そうではない歌集も多くあるのも確かなのだ。
中井スピカ歌集『ネクタリン』を読んで
中井スピカさんの歌集『ネクタリン』はそんな最近の僕のわがままに答えてくれる歌集だった。どういうふうに売れている若い歌人が歌集を出せるのか、その仕組みはぼくには全くわからない。しかしふつうの歌人にとっては結構歌集を出すのは大変で、ある程度経済力がないと「ひそかに」歌集は出せない。
「歌壇賞」の歌人と言うと、樋口智子さんもそうだけど、一冊一冊を大切に作るスタンスだなと思う。中井さんの歌集もそうだと思う。あとがきから類推するだけだが、少なくとも作者は三十代から歌を本格的に始めたのだろうか。四十代で結社に入ったらしく、結構私と年齢が近い。
歌集を手に取ると「どんな内容だろう」というよりも、やっぱり「どんな人なんだろう」と直感的に思ってしまう。パラパラと一読して、I章が仕事している時期、II章が幕間のように旅の記録、III章が結婚された時期というふうになっているようだ。
20年、30年前は、こういう歌集が圧倒的に多かったと思う。若書きのみずみずしい歌に、歳を重ねた深みのある歌が加わる。言葉派と人生派なんて言うけど、年月の「積み重ね」がなければ、そんな区分けがそもそも有効なのかは全くわからない。表現だって変わっていくし、人生だっていろいろ流転していく。そのなかで一つの世界を丹念に描くか、それともその変遷を書くか、という違いにすぎないのではないかと思う。
巻頭の印象
巻頭は次のような歌から始まる。
ぎこちないなあ、と率直に思う。
一首目は下の句の「強い」、これは口語でいいのか判断がつかない。
下の句でマゼンダ、ブーゲンビリアと一気に「道具」を出しました、みたいな感じがする。巻頭歌が一番の自信作、というわけでもなさそうだ。
次の歌は、「森が差し込まれゆく」、となっているから、「差し込まれてゆく」という文語調も混じっているということになる。そうすると一首目は、「マゼンダ強きブーゲンビリア」でも良かったはずだが、そうはしていない。
三首目。小学校の門を「ミント色」と表現するのはなかなか大変だ。多分大人になってから「ミント色」と表現するのはちょっと勇気がいるので、小学生だったときに、実際に門を「ミント色」と呼んでいたのかもしれない。「私のなかで」とあるから、これは記憶の歌なのだろう。
ジェリーフィッシュとか、ジントニックとか、歌語というには懐かしい言葉が巻頭からいっぱいでてきた。「そうそう、こういう表現の歌でちっちゃい冊子を作って、本屋さんとか喫茶店の片隅においてもらおうと企んでいた時期もあったかも」と思う。
仕事の歌
こういうカタカナ語が急に生き生きとしてくるのは、次の連作の「闇夜と月夜」からである。
ああ、これは職場の歌だな、人事管理か何かをしているのかな?という気がする。現代はバイトがいないと成り立たない産業もあるから、「あの子の時給」を決めるのは妙な実感がある。そこで「どろどろに甘いカフェモカ」が活きてくる。巻頭の歌と同じカタカナ語の歌だけど、この「甘いカフェモカ」は苦い。ある種の他者の行く末に自分が関わっている、そんな労働の生々しさだ。
次の歌、「なかもず」も「千里中央」もどんな駅なのかはわからないけど、なんとなく駅っぽい。多分往復と言うから、通勤しているのだろう。急に「海溝のごとき睡眠」という措辞に驚く。
もし「なかもず」が地下鉄の駅だったら、因果関係もあるかなと思って調べたら本当に地下鉄の駅だった。通勤のあいまに深い睡眠を取る作者。「海溝のごとき」という表現で、はじめて作者の諦めのような、深い疲れのようなものに気づく。通勤なんて一言も使ってないのに、そこまで想像させる作りだ。うまい。
三首目はちょっと嫌な歌で、自分が顔を知っているあの子もこの子も、部長にとっては人件費にすぎない。どっかで人の時間というか、行く末を預かっておきながら、簡単にそれを「コスト」の問題に還元してしまうのは現代社会の闇だと思う。それに対して作者は肯定も否定もせず、というより出来ず「小糠雨降る」と描くだけだ。
これもやや踏み込んだ批評性がある。小糠雨はこころのなかの光景とも取れる。他者へのある責任を作者は感じ取っている。
このあとの歌でも「女子会」や「婚活」という言葉がでてくるのだけど、この二首は「フラミンゴ」という連作の連続した二首である。一首目は「産休という木立」へ消える後輩がいるという。そのあと、フラミンゴの歌である。
おそらくこれはロッカー室の光景なのだろうととる。職場の靴から私用の靴へと履き替えたりするのだろうか。これが一番妥当性のある「読み」だとは思わないけど、「脚入れかえてゆく」という表現に女性たちが仕事とプライベートを取り替えていく光景をぼくは読んだ。その上の句に、「代わりなら幾らでもいて」というやや卑下したような、自分たちを下にみたような表現が加わる。フラミンゴという見立てとともに、ある皮肉っぽい感情も入っていて、趣のある歌である。
職場の歌を離れると、
どちらかというと発見重視で、口語中心でさっぱりした小気味のよい調べと、機知にとんだ見立てが中心の歌である。あまりもたもたせずに言いきった歌にいい味があると思う。
一首目、「パズドラ」が歌になる時代かと思った。「あずにゃん」だって歌になる時代だから、そんなに珍しくはないのだけど、実はぼく、パズドラのような携帯ゲームをやらないので「パズドラのペダル」はよくわからない。でも響きは「ポケモン」などよりも快活な感じがして、快晴の光景によく映えているような気がする。
二首目はきっぱりと、がいい。確かに高学年になるほど、男子と女子が遊ばなくなることはあって、それをある「日」だとしっかり決めている。その見立てが志を言うようでカッコいい感じがする。でも「苦いばっかり」という述懐に、「女子だけ」がいいことばかりでもないと作者は知っている。
三首目は確か吉川宏志さんにに前例はあったような気がするけど、この歌の着眼はパスワードの漏洩を防ぐために定期的にパスワードを変えることに注目したことだと思う。あるときは「himawari」だったりするのだろうけど、今は「Yugao」だという。機知に富んだ見立てだと思う。
たとえば「旧仮名」の「ゐ」や「ゑ」を使って醸し出されるような「湿り気を帯びた抒情」はないのだけど、見立てをストレートに歌うのが似合う、すこやかで健康的な歌集だ。
こんな歌にも作者の特徴が出る。仕上げ方によっては、「月光が土に染み込む」だけで歌になるくらい、たっぷり情感を込めて歌う歌人もいると思うけど、やっぱりどっかでトトロの「ねこバス」を出すような「かわいさ」が作者の特徴になるのだろう。「ねこバス」を出してもそんなに違和感がないから、成功している歌だと思う。
家族の歌
さて、最後に結婚の歌をあげてこの歌集をまとめたいのだけど、結婚という言い方はこの歌集の場合やや不正確なのかもしれない。1章の中盤から、なんとなくふっと母の歌が出てきて、物故された父の歌が出てきて、家族の輪郭がだんだん見えてくる。
・子供としての「私」の歌
不浄と月経は、古来からのテーマなのだけど、それを新しく発見するあたりが気になる。今後の展開になるので覚えておいてほしい。
これは物故されたお父さんの連作。あ、タバコか、と思う。
そこまで強く母性嫌悪だと認識はできないけど、母との距離感を歌った歌は多く見られる。そんな母はおそらく認知的な問題を抱えていて、年老いてしまったのだと思う。40代50代になると、母とか父をどう介護するか、ということもテーマになってくるので、今後の母の行く末も気になるところだ。
なにか子供っぽい自分に言及した歌もある。インナーチャイルドとでもいうのだろうか。
ちょっとずつ「職場」から「家族」になり、自らの女性性を強く意識するような歌集の作りになっているのだと思う。
これらはちょっと連関しているかはわからないけど、新しい家族となる将来の夫に対して、自分の穢れというか、ある種の潔癖さを認識している歌だと思う。さきほどの「月経」に少し似ている。結婚すら、一概に結婚、などとは言えない。生まれ育った場所でないところで異性と一緒に生活することだって、ものすごい大変なことだと思うし、私だったらはっきり認知できない「母」を見るのも辛いと思う。
それを結婚とか、介護とか、一言でいってしまうのはどうも反対だ。最後のほうの歌で、結論としてはああ、そうか、結婚というのは作者にとってで「家族のひっこし」だったんだなと私は感じた。
わたしたちは、こういう境涯みたいな歌をなんとなく深く読み込むことを避けたりしていないだろうか。
フェミニズムとか、ジェンダーとかいろいろ論点はでているけど、一見常識的に仕事をして結婚をして、という人生の中にも、それぞれの揺れはあって、そこから学ぶことも多いし、湧き上がってくる詩情を味わうのも大事だと思う。なかには「親の介護」なんて問題もでてくると、到底だれかが面倒をみなければみたいなことにもなってくるから、40代はそういうことの入口の年代だったりするのだった。一概に「主義」ではいかないことも増えてくる。それぞれに愛情の度合いも違うだろうから、これは常にケースバイケースで、ここに考えなければいけない。結局、その結果をぼくらは味わうしか出来ないのだと思った。
川野芽生さんは、親の介護をどう歌うのだろうか、そんなこともふと思ったりする。
『ネクタリン』はそんな一概に言えない境涯というのを、わたしたちに再確認させてくれるという点で、優れた歌集なのだと思う。見せ方がちがうだけで、想念のクオリティに差があるとは思えない。
こういう伝統的なスタイルの歌集が、伝統的だというだけでことほがれないのなら、少し残念なことだと思う。