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女流作家が与えてくれた未来

21世紀の今、女性が社会で活躍するのはあたりまえと、だれもが思っている。しかしこのような時代になるためには、人生をかけて努力し、闘った大勢の優秀な女性たちがいた。勇ましく、個性的で、時に痛々しいその姿は、女流作家の跡をたどると、顕著に感じることができるだろう。貧しく、学問を受けることのできなかった時代、また、女性が社会活動するなど、もってのほかといわれた時代もあったはずだ。そんな中でも強い意志力で前に向かった女性たちがあってこそ、わたしたちがこうして活動できている。その雄々しく男前な生き方を、多くの方々と体感できたらと思う。

ご存じのとおり、日本の女流文学は、『源氏物語』や『枕草子』にはじまる。けれど残念なことに、貴族社会の没落と武家社会の到来により、女性文学は長く停滞する。その後、女性に学問や文学への道が再び開かれるのは、お察のように明治を待たなくてはならなかった。

文明開化で一気に花咲く、女流文学の世界


長年押し込められてきた思いが、明治になると一気に花開いたようだ。才気あふれる岸田俊子清水紫琴、『藪の鶯』の三宅花圃、『婦女の鑑』の木村曙といった有能な先駆者たちが次々と登場する中、とりわけ三宅花圃の成功は、時代をこえて愛される女流作家、樋口一葉に与えた影響は大きかったという。一葉はその刺激を受け、『にごりえ』や『たけくらべ』といった、女性の生きづらさを描いた名作を生み出していったのだ。長い年月のあと、一葉は5千円札にも登場する国民的女流作家となった。


三宅花圃作:藪の鶯
出典:amazon.com
樋口一葉
出典:Wikipedia
5千円札の樋口一葉
出典:マイナビニュース

〈元始,女性は太陽であった〉、青踏創刊に添えた新時代の宣言

明治40年代、女性文学に大きな転機が訪れた。その象徴が、明治44年(1911年)に平塚らいてう(らいちょう)が創刊した女性初の文芸雑誌青踏』である。女流文学歴史を大きく変えた与謝野晶子長谷川時雨岡田八千代田村俊子野上弥生子など、時代を変えた作家たちが誌面を彩り、女性文学に大きな第一歩を築き、女性たちを牽引していくのである。
『青鞜』という名前は、"Bluestockings"(ブルーストッキング)の和訳で、作家の生田長江がつけた。18世紀のロンドンでは、フォーマルな黒いシルクの靴下ではなく、深い青い毛糸の長靴下を身につけることが、教養高く知性を重んじる女性たちの象徴とされていた。そのグループが「ブルー・ストッキングス・ソサエティ」だった。青踏はそのビジョンを踏襲している。

「青踏」創刊号
出典:Wikipedia

元始,女性は太陽であった、平塚らいてうが『青踏』の創刊に記したこの文は、あまりにも有名。単なる文芸の場を超え、女性文学を盛り上げる原動力となり、婦人解放運動にも影響を与えた。まさに時代を切り拓く存在であった。

青踏を受け継ぎ、長谷川時雨が「女人芸術」を創刊、次々に才女が登場した‼


『青踏』は短命だったが、その志は昭和3年(1928年)創刊の『女人芸術』(第2次)に受け継がれた。長谷川時雨を中心に、女流作家歴に残る才能豊かな女性たちが参加した。平林たい子、岡本かの子、佐多稲子、宮本百合子らは、時代を超えて才能を発揮し、女性作家の活動する現代に息づいている。

さらに、新人女性作家の登竜門ともなり、『放浪記』の林芙美子や円地文子といったユニークな発想をもった新時代の才能を世に送り出したのである。

昭和7年(1932年)に『女人芸術』は廃刊となったが、女性作家に自己表現と連帯の場を提供し、現代の女性作家の活躍への道を切り拓いたのである。こうした多くの女性は、個人の立場をはるかに超えて女性の生きる道を模索し、長い年月をかけてようやく作家活動ができるようになった。

先人たちの作った道に、創作という使命をもって応えていく

わたしたちは、このnoteで執筆活動が難なくできる時代に生きている。女性が成功するために尽力したのは、女性だけではない。才能や個性という財産を世に出そうと努力した男性の作家をはじめ、多くの支援のおかげである。わたしはこれら作家のあゆみを思う時、思想とは別に、志半ばで筆を折る決断をした作家、病に倒れた作家、また戦争で活動が阻まれたり、国家権力との闘いに敗れた作家たちもまた、わたしたちを進化させる冥利のように感じている。こうした幾多の恩恵を背景に、今、執筆という生き方を選び、活動していくことこそ、先人への最大の返礼と思えるのである。

ご縁あってこの記事をお読みくださった方々へ:
このnoteにご参加のすべてのみなさまが、この先もずっとずっと創作を続けていかれることを心から願っています。


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