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吉村実紀恵『バベル Babel』(短歌研究社)

 第三歌集。461首を収める。前歌集から22年ぶりの歌集とのことである。Ⅱ章以後の仕事の歌が抜群に面白い。現実と正面から向き合い、仕事の具体を通して描き出した歌の数々は、職を描くだけでなく、その職を含む社会を描き、時代と場所を描き出している。場所と言えば、この歌集の第二の主役は「東京」という都市だろう。都市詠としても見るべきところの多い歌集である。ところどころに見える文学への視線もけっして衒学的にならず、歌の血肉となっている。

海とひとつづきとならむ抱擁に肌をさすらうあまたの水母(P24)
 抱擁の場面で自らの身体を、海と一続きになるだろうと予感する。その時、海の一部である主体の肌をさすらうように流れて行くのは数多の水母だ。抱擁の時の肌感覚が水母の喩で実感される。初句二句の句跨りの韻律に惹かれる。

またひとつ自社開発をほうむって漕ぎ出す二百海里の果てへ(P59)
 「またひとつ」で、以前にも同様のことがあったことが分かる。「ほうむって」は一旦やり始めたプロジェクトを中止したことを指すのだろう。会社の方針転換があったのだ。それにより、他国へ目を向ける必要が出てきた。国の海域内である二百海里を超えて、主体は漕ぎ出だす。おそらく、主体の気持ち的にはマイナスな方向への変更だったのだろうが、「漕ぎ出す」には強い意志が感じられる。

ものづくり神話の終わりゆくさまを見届ける一兵卒なりわれは(P59)
 戦後日本を支えてきたとも言える「ものづくり神話」。いい物を作っていれば売れる、報われる、という時代は終わった。作ったものにどういった意味を持たせるか、どう見せるか、なども考えて行かなければいけない。時代の潮の変わり目に立つ自分を「一兵卒」と捉える自己認識が潔い。

力みつつ在庫管理を説くわれは時おり胸の社章たしかむ(P67)
 在庫管理の重要性を説く主体。おそらく聞いている側の反応はあまり芳しくないのだろう。だんだん力が入って来て、その時、ふと、自分は誰のためにこんなに力んでいるのかと思う。その都度、胸の社章を確かめてしまうのだ。

通訳を介する前の日本語に頷きぬ初老のTaiwaneseは(P67)
 おそらくこのTaiwaneseは日本語で教育を受けた世代の二世ではないか。一世世代はもう初老という年齢ではないだろう。二世でそこまで日本語が分かるのは親が熱心に教えたからではないか。他の若い社員のために通訳がついているが、その人物は通訳される前の日本語を理解して頷いている。国と国の歴史の、時間の裂け目がふっと過ぎる瞬間。

トレンドをしずかに昇る#コロナ切り 屋上へつづく階段冷えて(P75)
 ネットニュースのトレンド欄のランキングを上昇していく「コロナ切り」という検索ワード。コロナの時期に多くの人が職を失った。屋上へ続く階段を昇りながら主体はコロナ切りという語が上昇していく様を見ている。気持ちも世相も冷えている。検索ワードを素材にコロナを詠っってリアリティがある。

サイゼリヤワインで酔えるアラフィフは円周率も〈3〉でよからむ(P86)
 高級なイタリアンレストランではなく、ファミレスのサイゼリヤ。そこで出されるワインで酔える主体は自分を安上がりと捉えている。自分の世代が受けた「ゆとり教育」では円周率は3と教えられた。何でも簡単に手軽にして、教えられる側の負担を減らそうという、教育する側の意図だが、自分達を安っぽく見ている、という思いもあるのだろう。投げ出すような詠い方が内容に合っている。
 
分刻みで更新されてゆく街の路地裏に聴くピンク・フロイド(P134)
 世界中のどこよりも変化の激しい街、東京。その変化は「分刻み」と言っても過言ではない。そんな目まぐるしく変わる街の路地裏で、主体はピンク・フロイドを聴いた。手持ちのスマホからではなく、街に音楽が流れたのだと取った。その一瞬、あ、フロイド、と気づく。何十年か前のヒット曲に足が止まったのだ。

泣きかたはとうに忘れた 空調の下で観葉植物ゆれる(P184 )
 東京で働きながら生きていくのに泣いてなどいられない。泣いていたのは少女だった頃の話。泣きかたまで忘れてしまった。昨今は一年中ついているかのような空調。その人工的な風の下で観葉植物が揺れている。植物と言えどこれも人工的なものだ。よくあるオフィスの風景なのだ。

南下する若き兵士ら圏外となればスマホの画面より消ゆ(P201)
 何の戦争、あるいは紛争だろう。「南下」だからロシア兵かもしれない。それはおそらくこの一首では重要ではない。世界のいつどこででも起こっている紛争。それが瞬時にスマホ画面に映し出される。けれどわれわれが手に入れられる情報は与えられたものだけ。圏外となってスマホの画面から消えてしまったら、その後の兵士たちの運命など知りようがない。そして現代においては、スマホの画面から消えたものには、誰も興味を持たないのだ。

短歌研究社 2024.2. 定価:本体2000円(税別)

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