小俵鱚太『レテ/移動祝祭日』書肆侃侃房
第一歌集。2018年から2024年まで6年間の374首を収録。「レテ」は夏。
Ⅰはレテ(夏)で始まり、ロトンヌ(秋)、リヴェール(冬)、ル・プランタン(春)と勅撰和歌集の部立てを思わせる、季節ごとの歌の配列になっている。フランス語でつけられた季節名は全て定冠詞が付き、「あの夏」「あの秋」というニュアンスを感じさせる。Ⅱ以降描かれる、時々しか会えない娘のハルの様子を詠った歌に惹かれた。最終章Ⅴの「移動祝祭日」(この歌集中ではその年ハルの誕生日に当たった「海の日」を指す)という再び夏を感じさせる連作で一冊は終わる。移動祝祭日というとヘミングウェイを連想する。パリへの思い、ヘミングウェイの文体、それらに対する憧れがあるのかもしれない。個人的な読後感はヘミングウェイよりも村上春樹に近い。
海に向く青いベンチに陽は射して森永ミルクの文字剥げてゆく(P35)
「森永ミルク」と広告の文字が書かれた、昭和の時代を思わせるベンチ。その文字は直射日光が当ることと、経年劣化で、剥げてゆく。一見、爽やかな海辺の光景に見えながら、時間の流れを寒々とした形で可視化している。
観たあとで映画の話をするように火を見るたびに過去を話した(P45)
上句、一人で映画を見た後、その感想を人に話す場合と、誰かと一緒に映画を見て感想を語り合う場合があるだろう。下句との関連から前者のように思う。下句は上句を比喩としているが、「火を見るたびに」が喩的な印象を与える。闇の中でキャンプファイヤーやキャンドルと言った具体的なものを見る度に過去の話をした、と実景として取ってもいいが、人間の心の中にある「火」を言っているようにも思えた。
善人じゃないと気づいて人生はようやく冬の薔薇に追いつく(P47)
初句の前に「自分は」と補って読みたい。自分は善人だと思っていた、自分の行動はいつも正しい側を選択していると思っていた。ある時、そうではないと気づく。自分は善人じゃない、いや、そもそも善って何なんだ。そう思った時の主体の思考の流れはようやく冬の薔薇に至る。おそらく「善」と異なる観念である「美」に思考が至るようになったということだろう。遅ればせながら気づいた、という意味の「追いつく」だと取った。
言の葉に枯れ葉を交ぜて重くないことだけしゃべる冬のデニーズ(P51)
「言葉」を「言の葉」とした時に「枯れ葉」と重ねた機知で始まる歌。言葉遊びではあるが、枯れ葉の軽さと枯れて中味がないことの喩えにもなっている。心の底から重い話をすることも必要だが、重くない話だけをする間柄もある。デニーズで会うという気軽さからも深い話はしない相手なのだろう。
客死するための旅かと人生をおもう 洋酒に描かれた船(P61)
旅の途上で死んでしまうことが客死だが、人生そのものが旅であり、人生のどこで死んでもそれは客死なのだという考えが上句で箴言的に語られる。洋酒のラベルに描かれた船はおそらくカティサークだろうが、ふと今飲んでいる酒のビンに目を落としたような一瞬の間が感じられる。
なぜ知っているのドッペルゲンガーをパパもそういうのが好きだった(P81)
幼い娘がドッペルゲンガーを知っていると分かった時の軽い驚きと喜び。自分も子供の頃、そういう現象が好きだった、と自分の子供時代を回想する。ちょっと怪奇っぽい、超常現象。そんなことにわくわくした小学生時代の記憶が思いがけず、娘を通して蘇る。娘と自分の好きなものの共通点がある、精神的に繋がっていることがうれしいのだ。
声をおもいだせるうちは友だちと勝手に決めておもいだす声(P98)
声はその人に唯一無二のもの。録音することはできるけれど、写真のように目で見返すものと比べると、聞き直すことはややハードルが高い。頭で覚えておくものだろう。ただ、頭で覚えたものはいつか記憶から消えてゆく。思い出せる内だけ友だちでいられるのだ。いつかこの声を思い出せなくなることを分かりながらも今は思い出している。
春の草花どれも食べられそうでしょう水辺をゆけばきみに触れたい(P112)
春の淡い色の草花を見れば食べられそうに思う。「でしょう」と親しい口調で「きみ」に話しかけている。二人で水辺を歩いているのだろう。草花を見て水を見れば「きみ」に触れたくなってくる。もう一度上句に戻って読むと、草花を食べられそうに思う感覚にも微かなエロスがある。
二年前に買ったギターを弾いてない 掃除機掛けるとき持ち上げる(P124)
「ギター」と「弾いて」を任意の他の語に入れ替えると、誰にでも覚えのある光景が立ち上がる。やる気を起こして、買った何か。時間がもう少し取れれば取り組もうと思って、目に見えるところに置いてある。しかし実際には全く取り組めていない。ただ掃除機を掛けるときに、それが置かれたところの床も掃除したいから持ち上げる。触るのはその時だけ。淡々とした詠いぶりに日常のちょっとした、ほろ苦い思いが透けて見える。
プールサイドの気だるさがくる遠い濃い夏の日記を読みかえしつつ(P200)
若い日の日記を読みかえしている。もう遠くなってしまった、あの濃い夏の日々。プールサイドに寝転がって気怠い時間を過ごした時の感覚だ。ただ、夏と言ってもその頃と今とは全然違う。空気の濃度まで違う、そんな日々が鮮やかに蘇っているのだ。
書肆侃侃房 2024.7. 定価:本体2200円+税