藪内亮輔『心臓の風化』書肆侃侃房
第二歌集。詞書や散文を多用し、他作家の俳句を挟むなど、短歌の持つ可能性を広める試みをしている。随所に岡井隆の影響を感じる。形式は様々に試されているが、死への恐怖、死に対する深い関心が一冊を底流している。他の歌集同様、十首評として評したが、この歌集は、連作としての作品構成意識が高いので、本来は連作を一塊のものとして捉えるべきなのだろう。
褒められることを僅かな街灯として生きてゐた風雪の日々(P9)
街灯はその後の自分を照らすものの喩だろう。承認欲求があることを主体は隠さない。その褒められることですら、「僅かな」街灯としてしか機能しない。それでも、自分の過去の風雪の日々を振り返って、ここまで生きて来られたのは、褒められることがあったからだと感じているのだ。
なみださへやがて忘れるさればこそ言葉を つよく、残ることばを(P13)
今苦しんで流している涙でさえもやがては忘れてしまう。残るのは言葉だけだ。だから言葉が欲しい。それもすぐに消えてしまう言葉ではなく、強く心に残り、記憶に長く残る言葉が欲しい。得られないからこその願望なのだ。
無数の雨に撃ち抜かれつつなほ思ふ心なんてなくても心は歌へる(P40)
無数という数え方をしている「雨」は喩だろう。雨のように、何か自分自身を撃ち抜いてくるもの、それらに撃ち抜かれている。下句に惹かれた。心を歌っていても本人に心が無いことがある。むしろ心が無い方が心は歌える。ずたずたになって心も何も残っていなくても、言葉を歌として成立させることはできるのだ。
起きるたび朝の世界にぶつかつてああ真水のやうに眠たい(P59)
朝の身体がまだ起きることになじまない。上手く身体を動かせない状態だ。また意識もまだ半分しか覚醒していない。まだ意識の半分は眠りの中にある。眠さを表す「真水のやうに」、は誰にでも伝わり得る比喩ではないだろうか。
かなしみはいつも輝いてゐるつてあなたの指が川をさす朝(P65)
「あなた」の感覚ではかなしみは川の波頭のようにいつも日を受けて輝いているのだろう。「あなた」はそれを主体に教えるために川を指さしている。おそらく主体もその感覚を共有しているのだろう。川の水が途絶えることが無いように、かなしみが途絶えることもないのだ。
地上へと落ちて枯れ葉は鱗なす死にたくて生きてゐたあの日々の(P70)
枯れ葉が地上で重なっていることを「鱗なす」と表現した。死にたい気持ちと生きたい気持ちが折り重なっている心境にも喩えられる。死ぬためには当然のこととして生きているという状態が無ければならないが、いつの間にか生きることが目的に滑り込んでくる。生きているからこそ死にたいと思うのだとも言える。
言葉にならない、とすれば言葉ごと 逢へないならば逢はない逢ひを(P73)
「言葉ごと」の後に省略がある。言葉にならない言葉ごと聞いて欲しい、受けとめて欲しい、という願いだと取った。下句は和歌的「不遇恋」や「逢不逢恋」を思わせるが、「逢はない逢ひ」はより不自由な状態だろう。逢わないままでも逢っているのと同じように心が通じ合っていることを相手に確認しているのだ。
われをしらぬころのあなたに一つだけ灯つてゐたよあをい水仙(P100)
知り合う前の「あなた」には一つだけ灯がともっていった。その灯を青い水仙のようだった、と言っているのだと取った。四句切れで結句は青い水仙に呼びかけているようにも取れるが、それでは「あなた」と青い水仙が同じになり少しくどく思える。ただ「灯つてゐた」も「あをい水仙」も喩なので、実際にはどんな状態かははっきりしない。若い「あなた」の心の純さを言っているように思える。
はや憎悪 花はみなもにおちながらみなもにおのがすがたと出逢ふ(P101)
桜の花を思った。花は水面に落ちる時に水面に映った自分の姿と出会う。桜の花が散るのは咲き終えての必然だが、この歌では憎悪のあまり水面に落ちて行くような印象がある。おそらく主体の自己が重ねられているのだろう。水面に映った自分の憎悪に歪んだ顔に避けようも無く出逢うのだ。二句以下の平仮名を多用し、繰り返しによって韻律を高めている部分と、初句の「憎悪」という漢語に大きな隔たりがある。読む者の心に「憎悪」の一語が強く刻まれる。
咲(ひら)くとはこはれることで総身をふるはせ春を泳ぐさくらは(P132)
咲くことは壊れること、という把握に惹かれた。蕾の状態が完成形ということだろう。咲いた後はもう後戻りはできない。風に満開の花が揺れ、散る様子を、総身を震わせて、空を泳いでいるようだ、と捉える。満開の、今にも散りそうな桜が眼前する。
書肆侃侃房 2024.8. 定価:本体2400円+税