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他にもあった!各時代の「合議制」
何かと話題の今年の大河「鎌倉殿の13人」ですが、何が面白いって、主人公やタイトルが「鎌倉幕府」でもなければ「源氏政権」や「北条執権」でもない「13人の合議制」という点が新鮮ですよね!
今までは、脇役に押しやられていた人たちにスポットを当てた所が大きな魅力でしょう。
そもそも「合議制」とは、国政の執行機関を、複数の人の意思によって取り決める制度のことで、現代の内閣も、国会の衆参両議院のすべての委員会が合議制となっています。
「合議制」は、鎌倉時代以後も各時代でも取り入れられ、それぞれが特徴のあるものでした。
鎌倉時代
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源頼家時代
源頼朝が急逝したあと、まだ18歳だった源頼家を補佐するために設けられた政治体制が御家人たちによる「13人の合議制」です。
補佐とはいえ、源頼家が独断できないような機能もあり、御家人達による合議決定を将軍が最終的判断をするもので、あくまでも源頼家の裁断を否定するものではありませんでした。
とはいえ、将軍の権限は、ほぼなかったのですが💧
御存知の通り、その13人が、病没したり、ヤクザ抗争のように粛清されたりして、この体制はすぐに崩壊しています。
頼家も結局は粛正されたから、見境いのない抗争劇や💦
北条時代
血で血を洗う抗争劇に競り勝った北条氏は、「執権」として実質的な権力を握ります。
3代執権・泰時(坂口健太郎)の時には、13人の合議制を引き継ぐ形で「評定衆」として建て直します。
・副執権を設けて執権を補佐。2人
・三浦義村や二階堂行盛(現在出演中の行政の孫)を加えた11人
結局また13人?!
言うまでもなく、評定衆は、行政・司法・立法の全てを司る最高政務機関です。
北条氏は形式上、鎌倉殿を頂点に立てて幕政を執り行うための地位を得たものの、結局は世襲して権力を独占してしまい、実質は中身のない形だけのものへと変化していきました。
考えてみれば、北条氏も御家人の一人に過ぎず、主君ではなかったので当然といえば当然かもしれません。
北条め!上手くのしあがったものだ。
室町時代
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守護大名の誕生
室町幕府を創建した足利尊氏は鎌倉執権の北条義時・泰時親子を尊敬していたため、それを基本に政治体制を整備しました。
鎌倉幕府は関東が本拠地だったのに対して、
室町幕府は中央(京都)を本拠地としました。
幕府体制下を大きく中央と地方に分け、各地方に監視役の地頭として守護を任命しました。
ここに鎌倉幕府とは違う合議制が生まれることになります。
・鎌倉ー将軍と御家人と主従関係の上に成り立つ合議制。
・室町ー将軍と守護大名による連合合議制。
各地を治める豪族の力が増大していき、元々は各地の監督者に過ぎなかったのに、完全支配する守護大名へと変化していきました。
もうすでに幕府弱体化の兆しがあったね…
嘉吉の乱から応仁の乱へ
嘉吉元年(1441)、現在の兵庫県西部~岡山県北東部となる播磨・備前・美作の守護・赤松満祐が6代将軍足利義教を殺害してしまいます。
一介の地方守護がトップの将軍を殺害するなど前代未聞の事で、世は騒然となりましたが、赤松は幕府討伐軍に討たれ、それら一連の騒乱が嘉吉の乱です。
なんとか治まったように見えますが、この事をキッカケに、幕府の弱体化は加速します。
①幼少の将軍が続く
⇩
②細川氏・畠山氏・斯波氏が台頭して政治の実権を握る
⇩(この時の畠山氏は鎌倉時代とは別)
③守護らは将軍に従わない
⇩
④8代将軍・義政の後継者争いが勃発
⇩
⑤細川氏VS畠山氏(山名氏)となり、各地の守護がそれぞれに付く。
⇩
応仁の乱が始まる。
結局、最初の尊氏が北条氏に倣ったのが失敗だったのでは??
最初は中央の京都だけだった「応仁の乱」が、やがては日本全土を巻き込み、戦国時代へと突入します。
安土桃山時代
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織田政権
各地の守護大名による好き勝手な権力争いが続き、すっかり弱体化した室町幕府の15代将軍・足利義昭は京へ上りたくても、補佐・警護してくれる有力守護が誰もおらず、各地を転々としていました。
落ちぶれた幕府の将軍など、誰も関わらないは当たり前。
義昭は全国の守護大名に手紙で呼びかけますが、誰も応じない中、ただ一人名乗りを上げたのが戦国のカリスマ・織田信長でした。
従来の説では、信長は最初から義昭を利用しようと企んだようでしたが、最近の新説だと、純粋に義昭に敬意を払い、補佐するつもりだったらしい
信長の最初の狙いはどうであれ、結果的には将軍・義昭を擁立する事で、
織田と幕府との合議制による連合政権となります。
次第に義昭は信長に不満を抱き、挙句には反乱を起こして、あえなく敗れて京都から追放され、事実上、室町幕府は消滅してあっけなく連合政権は瓦解しました。
豊臣政権
秀吉が元気な頃は、全てが秀吉の独断での「独任制」でしたが、やがて死期を悟った秀吉は、幼い嫡子・秀頼が成人するまでの間、しっかり補佐してもらえるよう、有力大名5人と豊臣家家臣による合議制のしくみを作ります。
それは「五大老・五奉行」の創設でした。
【五大老】
・徳川家康
・前田利家
・毛利輝元
・上杉景勝
・宇喜田秀家
【五奉行】
・石田三成
・浅野長政
・増田長盛
・長束正家
・前田玄以
万全の体制を整えて安心した秀吉は慶長3年(1598)、63歳で没し、その後、前田利家が死去すると一気にパワーバランスが崩れ、いつの間にか家康が豊臣政権を取り仕切っていきます。
それに反発したのが石田三成で、やがて「関ヶ原の戦い」が起こり、その15年後の「大阪の陣」で豊臣家は滅亡する事になります。
合議制よりも徳川を潰しておくべきだったよ。
秀吉は年老いてから詰めが甘くなった💧
江戸時代
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江戸幕府を開いた家康は、最高職を「年寄」(後には老中)とし、その下に各大名を監視する「大目付」を置き、さらに行政と司法を司る複数の奉行を置きます。
政治は将軍の任命した4~5人の老中の合議制で取り仕切られ、「町奉行」「勘定奉行」「寺社奉行」の三奉行をはじめ朝廷を監視する「京都所司代」など多くの役職を置きました。
老中が合議するのは重要事項だけで、普段の業務は月ごとの交代制とし、各大名に対しても領地代えも行ないました。
江戸幕府の合議制メンバーの特徴は
・一つの役職に複数人を設置。
・交代制
複数人の設置と交代制度によって、各個人の能力を比較する事ができ、何よりも一人に権力が集中しないようにしたのです。
各藩も以下のように区別されました。
・親藩ー徳川姓を名乗った御三家・御三卿
・譜代大名ー関ヶ原の戦い以前から徳川家の家臣
・外様大名ー関ヶ原の戦い以後に徳川家に臣従
この時の外様大名から倒幕運動がおこるよ。
さすが、家康は歴史に学んでいる
その後の基本となった鎌倉の合議制
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各時代の合議制を一言で言うと、以下の通りです。
・鎌倉時代ー御家人13人の合議制→北条氏による評定衆13人
⇩
・室町時代ー将軍と守護大名による連合合議制
⇩
・安土桃山時代
⇩織田氏と幕府による合議制
⇩五大老(有力大名)と五奉行(豊臣家家臣)による合議制
・江戸時代ー複数人交代制の老中による合議制
結果はどうであれ、源頼家時代に発足した13人という複数の人間による合議制が、後の時代においても参考にされ、失敗は教訓として生かされ、試行錯誤の結果、江戸時代には権力集中や不正ができないように工夫されたようです。
歴史はずっと続いています。
血で血を争う仁義なき戦いも、後の世に役立ったのなら、その血も無駄ではなかったという事ですね。
さて、この後の時代の展開も想像しながら、「鎌倉殿…」を観賞してみましょう!
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