慶長4年(1599)閏3月3日は豊臣政権の五大老・前田利家が死去した日。若い頃から信長に仕え後に一貫して秀吉を支えた。前年8月に秀吉が死去し年末頃からは利家も病がちだった。政権内の武断派と文知派を仲裁し家康を牽制できた最後の人ですね。抑え役が退場すれば人間関係のトラブルばかりと。
慶長4年(1599)1月19日は四大老・五奉行が使者をつかわして家康を詰問した日。家康は前年死去した秀吉の法度に背いて伊達政宗ら諸大名と勝手に婚姻関係を結んでいた。細川忠興や加藤清正らが奔走し和解の誓紙が交換されたため一触即発の危機は回避されたが家康の行為を容認する形になった。
秀吉の死後 豊臣家の力関係 変わっていたかも どんなふうに? 五大老間の諸々 海外もね 豊臣家の中で 対立もあったようですね カトリックとプロテスタントの対立に、日本が巻き込まれたという 説もあるみたいですね これは 少し先の話 ですがね
慶長3年(1598)8月5日は伏見城で病床にあった秀吉が五大老に秀頼を託す遺言状を示した日。家康ら五大老と三成ら五奉行に誓紙の交換もさせた。秀頼の傅役とした前田利家邸に前月に諸大名を集め血判起請文をとったがこの日改めて秀頼の将来を託した。この半月後幼い秀頼を残し秀吉は死去する。