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それぞれの宗教のカタチ
最近、つくづく宗教に関して無知だと思い知らされる日々です。
というのも、只今、「京都・寺社仏閣編」を執筆中で、当時の寺社がどれだけ人々に大きな影響を与えてきたかを追うごとに、その深さと壮大さに感じ入る毎日なのです。
どうしてもっと早くに宗教に関してちゃんと向き合ってこなかったのか?
毎日が後悔の連続なのです。
歴史は、中学の頃から興味を持ち始めたのですが、武将たちの人生には共感できても、それらに影響を与えた宗教に関しては、なんだか難し過ぎて、無意識にスルーしていたのが本音です。
自分自身も仏教関係の高校に通っていた頃には、「仏教」という教科があり、「般若心経」もテストに出てきましたが、1ミリも、それらの意味には興味はなく、少しでも点を取るためにひたすら丸暗記する日々でした。
「仏教」の授業は、四天王寺の本物の僧侶が講義をして下さり、今から思えばとても貴重な体験で、もっと感謝すべき事でした。
それを、最低限の点だけ取れたらよいという安易な態度で接していたことは、なんて愚かだったのかと恥じ入るばかりなのです。
せめて、この時の貴重な体験をもっと真摯に受けていれば良かったと、無意識にやり過ごしていたと後悔しかありません。
執筆するにおいて、最近また宗教に関して調べる機会が多く、よりいっそう興味のアンテナが鋭くなってきています。
そんな中、note内においても素晴らしい宗教記事を見つけて、また深く感じ入った次第です。
ご紹介するお二人の記事には、とても感じ入り、一気読みしたあと、もう一度読み直してしまったほどです。
💠そい先生
私たちは当然のように、目に目えるものが世界の全てであると認識しているのではないでしょうか。
しかし、日々目の前に起こる出来事は、起こった瞬間から消えていき、また違う現実を目の当たりにします。
それを体験した私たちの思考も湧き上がっては消えていく、波のような存在であると言われています。
現実では過ぎ去って影も形もないのに、私たちの思考や概念はいつまでも残り、こだわり続けているのです。
そしてそい先生は、老子道徳経から自分なりの結論を出されています。
老子道徳経とは(簡単に一部抜粋)
本書に書かれている老子の思想の根源は、「無為自然(むいしぜん)」というもの。人はあるがままに生きるべきだという意味です。
私たちが現実だと思って、その対処に思考を巡らせている時、その自分を俯瞰する自分にまた気付き、別の自分を発見することがあります。
結局はその繰り返しで、果ては宇宙規模な広がりを感じて尽きることはありません。
無限の可能性を追うよりも、答えはもっと身近にあるという事に気付き、
ー宗教心とは良心という真心であり、それはすなわち愛であるー
という結論に至っておられます。
私たちは日々起こる幻のような事に捉われるばかりに、間違った対処をしてしまいがちですが、心の中に愛をもって臨むことこそ、人生の最優先事項なのです。
浄土宗を興した法然は、万民がどうすれば救われるかを苦慮し、その解決に至るまで実に30年という歳月をかけました。
法然がその解決に至った根本にあるものも、結局はシンプルな”愛”であったからこそ、身分や老若男女を問わず救われる道を切り開けたのではないでしょうか?
💠伊集院秀麿 さん
道元や栄西は禅宗を極めた僧たちです。
日本での臨済宗開祖である栄西は、今の大河ドラマでおなじみの2代将軍源頼家の庇護を受けて京都で「建仁寺」を開山しました。
当時の坂東武士にとって、
座禅を組んでひたすら己と向き合うという禅宗は、難しい経典を読まずに悟りの境地に達する事ができるという、実にお手軽な宗教として人気を集めました。
先ほどの法然もそうですが、この禅宗の道元と栄西も天台宗である比叡山延暦寺での学僧でした。
ー今のままでは人々の救済などできないー
万民がどうすれば救われるかを突き詰めようと中国の宋に渡り、本場の禅宗を学びました。
そこで栄西は達磨大師が創始した「中国禅」というものにカルチャーショック受けます。
それは、仏教教学の根本とは次の事で、
「戒」まもるべき事
「慧」わかるべき事
「定」実行すべき事
そのうち「定」を重視する流れのことだというのを知ったからです。
達磨大師が説いた「定」とは同じ位置に定まる事で、すなわち座る事にあたり、「禅」に繋がります。
ただ無心に座禅を組む事で答えなどない問題を見つめ、存在しない「正解」をただ一心に探るのです。
伊集院さんは、最後にこう結論されています。
「解決不能」な問題=禅問答=公安
と言われ、そしてこう結論されています。
ー万人に通じる公案の解などないー
「解」を見つけることが大事ではなく、その解を求めて自らが何を観て悟ったかが重要なのです。
答えは自分の中にあるのだと言う事ですね。
宗教が難しいか簡単かは自分次第
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比叡山で天台宗を開いた最澄にしろ、
高野山で真言密教を開いた空海にしろ、
厳しい修行の末、見出したかったものとは、少しでも多くの人々が救われる事ではなかったか?
それがいつしか選ばれし者しか救われないような宗教に転じてしまったのはなぜだろう?
そい先生や伊集院さんが言われるように、結局自分の中にある「心」が宗教であり、自己を見つめてみると意外にもその信条が見つかるのかもしれません。
宗教とは「心のよりどころ」とよく言われるように、自分の中にしか存在しないものであり、どんな宗派か?などは関係ないのではないのでしょうか?
私たち日本人は、元々は神仏習合を日常的に取り入れ、神も仏も、神道も仏教も同じように信仰してきました。
この日本人の宗教感覚は、世界でも類を見ない大らかさを持っていたのです。
何宗の何教か?などという問答などは不要で、心の中にあるままの気持ちでご先祖を思う事が肝心なのです。
お盆の直前に、今一度、自分にとっての宗教は何か?
自分の信条に向き直った上でシンプルに考え直し、自分の素の心を見つめてみるのもいいのかもしれません。
その上で、ご先祖様の霊前に手を合わせてみましょう。
いや霊前でなくても、心に思うだけで十分なのです。
宗教とは、何かを得ようとしても答がないのであれば、自分の心そのものを育ててゆくものではないでしょうか。
そう考えてみると宗教とは、何も難しいものではなく、ただ自分の心のままに感じるべき身近なものだと思うのです。
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