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フロイスが見た日本のクリスマス

早いもので、もうクリスマスの時期となりました。

まずはm.Aさんの記事を紹介させていただきます。

彼女は主に西洋史関連の記事を書かれていて、サバサバした文体で無駄な言葉は一切なく、端的で解りやすい記事なのです。
日本史しか知らない私にとって、いつも興味深い学びがあり、見識が広まります。

本日の学びは「ビーダーマイヤー時代=わびさび時代」でした!
詳しくは是非とも記事を読んでくださいね。


さて、私も今日はクリスマスに関してのお話です。

元々「クリスマス」は、ポルトガル語で「生誕」を意味する「ナタラ」と言われていました。

もちろんキリストの生誕をお祝いするという事です。

Christキリストmasミサ (礼拝)」という2つの単語から、直訳して「キリストミサ」となり、いつしかそれらが一つの単語となってChristmasクリスマスで定着したようです。

これを英語の授業で教えて欲しかった!
私は「チリストマス」でスペルを憶えました。。。

そもそも日本では仏教徒が多いにも関わらず、なんの抵抗もなくクリスマスを受け入れる日本人の大らかさには驚きます。

例えば、お寺でもクリスマス行事はあり、特にお寺に付随した幼稚園などでは、住職もサンタのコスプレで登場したり、中にはサンタ=菩薩として「クリスマス法要」を執り行っているところもあるようです。

明治33年にはサンタクロースに「三太九朗」という日本名を付けていたとされる記述も残されています。

これらからも、いかに日本人に柔軟性があり、クリスマスが親しい行事となったかが伺えますね。



ルイス・フロイスの目を通して

昨年は正岡子規の俳句に触れながら、日本初のクリスマスは1552年、戦国時代の山口県で開催されたのが最初で、そして「明治屋」による商業戦略によって日本中に広まったという記事を書かせていただきました。


昨年のスピンオフとして、今年は宣教師・ルイスフロイスの「日本史」から、彼の目に映った戦国武将のクリスマスについてのエピソードを中心にお伝えします。

ルイス・フロイスとは、

イエズス会士として戦国時代の日本で宣教し、織田信長豊臣秀吉らと会見。戦国時代研究の貴重な資料となる『日本史を記したことで有名。

出典:Wikipedia

1563年、31歳で肥前国 (佐賀・長崎)に上陸して、1595年に65歳で没するまで実に34年間、キリスト教宣教師として日本に滞在し、実体験での細やかな記録を残しています。

内容は、日本の風習などに誤解や偏見が多いものの、外国人の目を通した客観的な視点から、鋭い観察力と文才で当時の日本人の意外な様子がよくわかる史料となっています。



好奇心旺盛な日本人たち

1560年のクリスマス、大分で聖書劇として「アダムとイブ」が初上演されました。
演者は日本人信者ですが、脚本はルイス・フロイスだったと言われています。

異教徒であっても関係なく、わざわざ遠方からも人々は押しかけ、観客は2000人も集まりました。
そのため会場に入りきれず、翌年からはやむなく予約制となるほど人気を集めたそうです。

エデンの園を追われるアダムとイブに感情移入し、会場内は号泣の嵐だったらしく、たとえ異教徒で外国のお話であっても、日本人の心にちゃんと響いていたようです。

馬小屋なども本格的に設置され、当時には珍しい天使や聖歌隊などに感激し、それら全てを持ち前の好奇心で受け入れて心から楽しんでいたようです。



休戦したのはクリスマスだから?

1568年のクリスマス・ミサについて、ルイス・フロイスは以下のように記述しています。

そのなかには70名の武士がおり、互いに敵対する軍勢から来ていたにもかかわらず、あたかも同一の国守の家臣であるかのように互いに大いなる愛情と礼節をもって応援した。

Wikipedia

上記の記述に「敵対する軍勢」とありますが、どこの兵のことなのか明確ではありません。

この年、足利義昭を奉じで上洛した織田信長と、京で実権を持つ松永久秀とのことではないかという説もあります。

しかし、事実確認をしてみると、この時には二人は敵対しているわけではなく、むしろ協力し合っていたようなのです。

正確には松永久秀と三好長慶の遺臣たち(三好三人衆)とのことではないでしょうか?

上記の70名もの武士というのは、松永兵と三好兵であるのが有力だと思います。

たまたま双方の兵にキリシタンが多く、単なる好奇心で誘い合ってミサに参加したのではないでしょうか?

もしかしたら、「クリスマス休戦」とまではいかなくても、敵味方が入り混じってクリスマスを祝ったのは事実かもしれません。 

ちなみに織田信長も松永久秀もキリシタンどころか、仏教徒ですから
1ミリもキリスト教への信仰心はなかったはずです。

久秀は3度も信長を裏切り、最期は壮絶な爆死を遂げています。
しかし信長は最期まで、久秀を認めていたようで、言ってみれば信長の片思い?
この二人の関係もなかなか面白いので、後日また記事にしたいと思います。




フロイスはディスリ名人?

最後に、フロイスによる戦国武将の評価を抜粋してみました。


織田信長

《プラス評価》
・きわめて稀に見る優秀な人物
・決断力に優れている
・大いなる賢明さをもって天下を統治した

《マイナス評価》
・全ての者を見下している
・進言などはほぼ聞き入れない
・絶対君主で皆から恐れられている

キリスト教の布教を許してくれた事には感謝しているようですが、信長自身は禅宗や法華宗の信徒である事が、どうも許せなかったのでしょう。

きっと彼としては強欲にさらなる支援を望んでいたのに、期待通りにはいかなかった事への不満かもしれません。



明智光秀

フロイスによると、「光秀は悪魔とその偶像のたいへんな友達」と評し、キリスト教や宣教師たちに悪意さえ抱いていたとまで言っています。

彼から見た「悪魔」とは「仏」を指し、単に宗教観の違いから生んだ誤解だとも取れます。

・才知、深慮、狡猾さで信長の寵愛を受けた
・裏切りや密会を好む
・残酷な刑を科する
・独裁的だった

以上が明智光秀についてのその他の評価ですが、フロイスはよほど嫌っていたのでしょうね。
その反面、何事もよく吟味すると光秀の優秀さがよくわかる評価です。

長い間定説とされてきた「信長が光秀を足蹴にした」という史実は、どうも彼の思い込みに過ぎなかったようです。

その理由は密室での出来事であり、誰も見ていたものはおらず、単なる”噂”から妄想した事だったのではないかとされています。



豊臣秀吉

秀吉に関しては、ボロカスです。

戦闘に熟練していた
・気品に欠け、極度に淫蕩
・抜け目なき策略家
・悪知恵に長けている

秀吉は1587年に伴天連バテレン追放令を出し、宣教師を追放しようとしているで、当たり前ですね。

秀吉はわざわざ遠方から招き寄せた兄弟姉妹や親類を惨殺したと触れ、
驚くべきは秀吉の兄弟姉妹は、母の大政所が別の男と結ばれて誕生したとまで記されています。

このことは彼だけが書いている事で、いったいどこから入手した話なのでしょう。
秀吉に対しての悪感情はわかりますが、もし単なる妄想だったとしたら、真実はどうなの?となりますね。



武田信玄

信玄に対しても辛辣です。

・仏教信仰の願いは他国を支配する事
・わずかの失敗でも容赦なく家臣を殺す恐るべき人物

そりゃ信玄もバリバリの仏教徒だったので、許せなかったのでしょう。

「甲斐の虎」と恐れられた信玄でしたが、織田信長でさえ最も恐れた武将だったとも評しています。

 


松永久秀

・最高の支配権を奪って天下を支配した
・高貴な貴人たちが多数彼に仕えていた
・稀有な天稟てんぴん、博識と辣腕を持つ
・狡猾である

教養を備えた人物であり、公家との折衝もこなすほどの人物だった久秀の内に秘めた野心を見透かしたような評価です。


散々な悪口ですが、ただ単にキリスト教を信仰しなかったので、その八つ当たりだったようにも取れます。

ザっとみた感じでも、現在における日本史の定番説はフロイスの「日本史」によるところが大きく、読む側の受け取り方次第で大きく解釈は変ってきます。

それにしても、もしフロイスが現代に生きてSNSをしていたら、大バズリして炎上は間違いありませんね。



日本にクリスマスが上陸して、今年で468年。
すっかり形を変えてイベント化しましたが、皆さんにとって良いクリスマスでありますようにお祈りいたします。




【参考文献】
回想の織田信長 フロイス「日本史」より
フロイスの見た戦国日本
和楽Web
戦Blog
歴人マガジン
Wikipedia


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千世(ちせ)
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