他者と比較することをやめたい人へ
「他人と比較しても何も役に立たないですよ😁」
「比較するなら他人ではなく過去の自分と比較しましょう😀」
「😇」
思わずちゃぶ台をひっくり返したくなりますね。
たくさんの情報が溢れている今日、どっかのSNSに箇条書きに流れてきそうな、そんな「心がけ」たちはみなさんも百も承知かと思います。
もちろん、それで比較をやめれてるのであれば素敵なことですが、頭で分っていても比較思考はちょっとした隙を狙ってあなたのもとへ襲いかかってきます(ホラーかな)。
例えば、私ごとですが、他の人のノートをパーっと観覧しているだけでも「この人めっちゃ♡もらってる、、ぐ、ぐやしい」という比べる思考がしれーっと出てきます。
比べないように心がけていても、一回はその下りを通るんです。(まじで勘弁)でもそれは私たちの過去を考えると無理もない話かもしれません。
比較の歴史
というのも無常なことに、私たちは割と早い段階から比較文化に染められます。やれ成績だ、足の速さだと順位をつけられ、他人に教えられなくてもあれこれと比較を始めます。
比較の1-1
初めの段階はシンプルな比較思考なので過度に自分を卑下することにならない場合が多いです。「りんごは洋梨よりも丸い」「AちゃんはBちゃんより鼻が高い」「BくんよりAくんの方が足がでかい」など算数の問題にも出てきそうなただの比較ですので、特に問題にもなりませんし、心にも影響はないはずです。
比較の1-2:オリジナルな解釈を持ち出す
比較思考に牙が生え始めるのがこの1-2の段階です。
1-1のシンプルな比較した後、「だから〜」などのオリジナルな解釈を付け加えはじめるんです。(私はAより成績が悪い、だから私は人としてだめなんだ)
厳密に言うと「比較思考」そのものは問題ではなく、比較思考から生まれるオリジナルな解釈が我々にダメージを与えてきます。
おわかりかと思いますが、このオリジナルな解釈がまあヘビーなボディブローを出してきます。メイウェザーくらいです。ただの解釈であるということを思わず忘れてしまうくらい説得力があるんですよね。
オリジナルな解釈への執着
(バカのパラドックス)
人間ってみんな自分が思いついた考えとか推察大好きなんですよね。勘違いだったり、自分にとって有害な考えだったとしても、ぜっぜん疑わないし、離そうとしない。
例えとして、僕が個人的に「バカのパラドックス」と呼んでいる少々ひねくれた解釈があるので紹介します。
私は何かやらかした時、「自分はバカだなー」って自分に対して思います。
この「自分はバカだなー」という考えを受け入れたとすると、「バカな僕」が「自分はバカである」と評価しているということになります。
ではここで疑問ですが、バカな人が判断したことをどうして信用できるのでしょうか(とんちを利かすのであれば、「バカだから」がベストアンサーでしょうね)。
結論、人はどれだけ自分のことを「バカだ」と思っていたとしても、自分の中から出てきた考えや思いつきを溺愛し、めっちゃくちゃに信用している場合が多いということです。
話を比較思考に戻すと、自分の中で生まれたあんちょくな比較思考に対しても迷いなく信じているわけです。逆に言うと信じれなかったら、落ち込んだり、ダメージを受けることはないんです。
私なりの比較思考への対処法
① オリジナルな解釈はあんま信用しない(「無知の知」を大切にする)。
「なるほどねー」なんて実際声に出しながら、オリジナルな解釈の存在は認めつつ、深く関与しないという方法です。
思考のとりこになっている時は、忘れているかもしれませんが、そもそも自分の解釈には妥当性もなければ、信頼性もない場合が少なくないです。
一人の人間が思った、ただのいち主観的な解釈でしかないわけです(どっかの知らないツイートみたいな)。
「そんなこと言われたら(実際は考えが出てきただけ)萎えるわー」と自分に寄り添う姿勢を持つことで、思考を抱えながらもしぶしぶ、自分の目の前の行動に意識を戻しやすくなるかなと思います。
また、このスタンスを貫くうえで大切なのは、神ならぬ人間がこの世界について分かっていることはたかが知れていることを自覚することです。
要するに、ソクラテスの無知の知みたいなことです。
私は良いことであろうが、悪いことであろうが、自分の頭が「これは間違いない!」と何かを確信した時ほど、この無知の知を思い出すようにしています。
良くも悪くも、浮かんだ考えのバランスを取ってくれるので、気を取られすぎず、行動に集中できるようになるんです。
② しっかり落ち込んだのち、自分の目的を思い出して、向かう。
私の場合、比較思考に限らずですが、思考に気がとられてる時って、手が止まっていたり、目の前のことに意識が向きません。スイッチ切れたペッパーくんみたいな感じになります。やや斜め下を直視して、固まるみたいな。
オリジナルな解釈からダメージを食らって、ものの見事に落ち込んでいる時間なんです。ダメージを食らっているのは事実なので、しっかり落ち込むことも大切なのですが、落ち込む時間が長すぎてしまうと本質からはぐれてしまうリスクもあります。
その本質とは「そもそも自分は何をしたくて、そのために今何をやらねばならんのか」という目的と論理です。
私がペッパー君状態の時も、時間は刻一刻と過ぎていますが、目的を達成する方に進む時間の使い方ではなく、自分を悲観したりする考えに説教される時間を設けているわけです。
要するに、本質から逸れた時間の使い方をしているんです。
比較思考をはじめとする思考に後ろ髪を引かれそうになった時、自分の目的を思い出して、目的に沿った行動をなるべくとってあげるということを大切にしています(仕事などに限った話ではないです)。
③ ②が難しい時は、時間を決めてとことん落ち込む時間を設ける。
人は自分の気持を認識して、受け止めることで心の傷に絆創膏を貼ることができます。つまり、ペッパーくん状態も上等であり、人生において大切な時間ということに間違いはありません。
ポイントは時間を決めることです。
その理由は「比較思考はエンドレスゲームである」というのが大きな要因です。単純に自分を傷つけたいがために比較思考に執着している場合もあります。
何秒、何分、何時間、何日でも構いません。あらかじめ時間を決めて落ち込んでみましょう。そして、ゆっくりでも構いません。タイミングを見計らって、落ち込みながらも行動を伴わせてみましょう。
「比較思考は上手く使うことができる」
最後に、比較思考も使い方次第、ということをお伝えして終わりたいと思います。
物事は表裏一体、比較思考にも良いこともあるんです。
①比較した先には自分の目的や理想が反映される
②自分の現在地が分かる
自分が何に憧れているのか、どのような姿になりたいのかなど、自分の理想像について情報を取ることができること。そして、今現在の自分に何を付け加えたらいいのか、今の場所からどこに移動したらいいのかなど具体的な動きを把握することもできます。
一言でいうと「比較した人から何を真似すればいいのか、考えよう」ということです。
「学ぶことは真似ることから始まる」
ブランチポイントカウンセリングでは、認知行動療法を中心としたカウンセリング、人間関係の改善や傾聴力の向上を目指した心理教育を実施し、クライエント様の生きやすさを共に探すお手伝いをしています。