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ハードボイルド書店員日記【199】

「ほら、早く決めなさいよ」
お盆期間の児童書売り場。課題図書が並んだコーナーの前で男の子が母親らしき女性と話している。たぶん小学生だろう。青いTシャツを着てドジャースのベースボールキャップを被っている。

「大谷の絵本は?」
「ダメダメ。学校の宿題なんだから、ちゃんとした本にして」
絵本もちゃんとした本では? 学習参考書の棚整理をしながらそんな言葉を飲み込む。
「じゃあマンガ」
「もっとダメでしょ」
すべてのマンガを「マンガ」という枠でひと括りにし、読む行為を正式な読書と見做さぬ判断は公正さを欠く。日本史の棚に置いている中沢啓治「はだしのゲン」を勧めようと口を開きかけ、思いとどまった。まだ彼には早い。あとできれば道徳的思考を強制しがちな大人に促されるのではなく、興味を抱いた結果として出会ってほしい。

「あの、すいません」
「はい、いらっしゃいませ」
母親に話し掛けられた。
「読書感想文を書くための本を探してるんですが、何かオススメとかよく売れているものがありましたら」
「オススメというか、、、本人の読みたい本がいちばんかと」
「ほら、店員さんもそう言ってるよ。ぼく『ドラえもん』がいいな」
「だからマンガは」
「読書のきっかけになりそうな巻がありますので、よろしければ」
「そうなんですか。じゃあ」
「少々お待ちくださいませ」

「こちらでございます」
てんとう虫コミックス「ドラえもん」(小学館)の11巻を男の子へ手渡した。立ち読み防止のためのシュリンクは外してある。
「173ページをどうぞ」
巻末に収められた「ドラえもん大事典」の扉絵だ。各部位に備わった機能が紹介されている。
「身長と体重が一緒なんだね」
「胸囲も同じ129.3です。そこではなく、もう少し下のここを読んでもらえますか?」
『原子ろ』『何を食べても原子エネルギーになる』
「えっ」
母親が身を乗り出した。目の色が変わっている。
「ドラえもんの動力源って原子力なの?」
「そのようです。アトムやサイボーグ009と同じく小型の原子炉を」
「危ないじゃない。事故が起きてメルトダウンとかしたら」
「ですね」
男の子はつまらなそうに欠伸をし、どんどんページを捲った。

「あ、ストップ」
「なあに?」
「187ページ。ひみつ道具の紹介コーナーです。ここを読み上げていただけると」
『安全カバー』『原ばくが落ちてもへいき』
「そんなことまで書かれてるの?」
口の部分が縛られた透明なビニール袋みたいなものの内側にドラえもんが入っている。背後には、もくもくと膨らんだきのこ雲らしきイラスト。
「奥付を見てください。この巻が発売されたのは1976年です。おそらく原子力の平和利用という未来に夢を抱いていた時代かと」
「なるほどね」
いまや母親の方が見入っている。男の子はマンガを奪われ、手持無沙汰にハリーポッターの棚を眺めていた。

「これ、いただきます」
「ありがとうございます」
「え、マンガでいいの?」
「私が読むのよ。あなたは感想文を書くための本を探しなさい」
そしてこちらを振り向く。
「実は学生時代に『黒い雨』を読んで、すごく衝撃を受けたんです」
「井伏鱒二ですね」
1945年8月6日、原爆が投下された後の広島の惨状を描いた小説だ。被爆者の日記や手記が基になっている。
「店員さんも読みました?」
「ええ。372ページが忘れられません」
こんなことが書かれていた。

もう負けていることは敵にも分っていた筈だ。ピカドンを落す必要はなかったろう。いずれにしても今度の戦争を起す組織を拵えた人たちは……

「黒い雨」 井伏鱒二 新潮文庫 372ページ

「いつかこの子にも読ませたいけど、本当はあまり強制したくなくて」
「わかります」
「でもこのマンガが家にあれば」
「当店には『はだしのゲン」もございます」
「ああ、それも読まなきゃ。怖いけど」

正直な人だと思った。怖い。私も同じ気持ちだ。「読まなきゃ」が「読みたい」に変わった際はぜひ。

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