ハードボイルド書店員日記㊾
「あれ? お久し振りです」
平日の昼下がり。レジで四六版のカバーを折っていると白いワイシャツを着た中年男性に声を掛けられた。首から入館証の付いた青いストラップを提げている。某出版社の営業だ。以前働いていた書店で接点があった。
「お久し振りです」「こちらにいらっしゃったんですね。ご担当は?」「ビジネス書と専門書全般です」「ああ残念」彼の勤める会社は旅行ガイドを専門に扱っていた。「ビジネス書、何がいちばん売れてますか?」「ひろゆきさんの『1%の努力』かな。若い人がよく買ってくれます」「さすがですね。すぐ答えが出てくる。大きな声じゃ言えませんが、なかなかいないですよ」見え透いたお世辞である。あの本はどこの書店でもベストセラーのはずだ。
「ところで○○店、閉店するって噂ですよ。館そのものがなくなるとか」前の職場である。長くなりそうなので横のサービスカウンターへ移動してもらった。レジにはもうひとりバイトの子がいる。
多くの書店員は営業と談笑することを好む。私は例外だ。仕事の話を手短にするだけ。でも雑談からヒントを得られることもあるので一応付き合う。
「売り上げは悪くないはずですが」「ええ、近隣のエリアに書店がないですから。でも雰囲気は良くないですよ。また契約社員がひとり辞めましたし」「閉店するから?」「まだ決定じゃないのでそれが原因ではないでしょう」「店長?」「おそらく」トップが従業員を大事にしない店は長続きしない。ただでさえ給料が安いのに働きがいも感じられなかったら誰だって離れる。ただ業績を伸ばしていく上で一定の厳しさが必要なのも事実だから、その辺の線引きは難しい。
「こちらはどうですか?」「いいお店ですよ」「でも物足りないんじゃないですか? 昔は店長代理みたいこともされていたのに」「もうああいうのは」「あの頃みたいにもっとバリバリ働きたいんじゃないですか?」返答する代わりにサービスカウンターに置かれたノートPCを叩き、ハ・ワン「あやうく一生懸命生きるところだった」のデータを呼び出した。
「こんなの読むんですか?」男性の目に一瞬嘲りの色が浮かぶ。「ええ」「どうでした?」「いい本ですよ。仕事に人生の全てを捧げるのは素晴らしいことです。誰しもそういう時期はあった方がいい。でもそれだけが最適解ではない。目の前の仕事に全力を尽くすことと他の時間を充実させることは必ずしも矛盾しません」
「なるほど」男性は寝違えたようなしぐさを見せた。左手の薬指がかすかに光る。「ただですね、仕事で稼がなかったら家族との生活が」
別の本のデータを出した。堀江貴文「死なないように稼ぐ」だ。「人生の形や節目によって価値観は変わってきます。生きる上で必要なお金の量も。選び取った状況次第です。違いますか?」「まあそうですね」頷いたのに納得していない。彼の中で私のイメージは前の店で連日残業していた頃のままなのだ。
「仕事をセーブして何かやられてるんですか?」「文章を書いてます。小説とかコラムとか」「好きなこと、ですね」「時間を忘れて没頭しています。毎日。趣味感覚よりももう少し真剣に」「でもお金にはならないでしょう」「生きるために必要な分は書店員で稼いでます」「収益化できるようになるといいですね」そういう趣旨で始めたのではないという反論と結果的にそうなればという半肯定的見解が混ざり、とっさに言葉が出なかった。
「目的意識を忘れずに腕を磨いていけばいずれ、と考えています」やっとそれだけ言えた。「目的意識、ですか」「読んだ人の『今日』を『昨日』よりも幸せにする」「オリジナル曲を弾き語りする路上ミュージシャン、みたいですね」「たしかに」「昔やってたんです。上野の駅前で」男性は左手の指4本を右手の親指と人差し指で抓んだ。「こんなんじゃなかったんですよ」
「上手くいくことを祈っています」「ありがとうございます」「ではまた」白いものが増えた後頭部と丸い背中を見送る。またギターを始めたらいい。休日に少しずつ。お金云々じゃなくて純粋に好きなことを。心の中でつぶやき、私は死なないための仕事へ戻った。