ハードボイルド書店員日記【57】2025年リライト版
土曜。早番が少ない。
必然的に遅番が来るまで抜けられず、昼休憩は14時。エプロンの下のへこみに指を触れ、約束事に囚われた人の身であると痛感した。
「お腹すいた~」
隣で実用書担当が嘆く。茶色い髪をポニーテールにした小柄な子だ。私と同様、土日両方に出勤している。「せめてどちらかは休みたい」と何度も訴えたが「新人が入ったら」「育ったら」とかわされ続けて現在に至る。先日は「『店長ずっと土日休みですよね』というファイナルウェポンが発動5秒前です」とボヤいていた。
「先輩、平気なんですか?」
「何が?」
「いろいろ」
「平気ではないな。慣れることで耐えるしか」
「私はムリです。早く食べたい」
「何を?」
「ハヤシライスかなあ。横断歩道渡ったところに洋食屋さんがあって」
「知ってる。静かで落ち着ける店だ」
「最近またミステリィにハマってるんです。東野圭吾とか」
「『流星の絆』だな」
「読むんですか?」
目を丸くして軽く仰け反る。
「俺は君の中でどういうイメージなんだ」
「『東野がミステリィ? ふふん』『島田荘司だろ』みたいな」
伊坂幸太郎をすべて読んでいると伝えたらどんな顔をされるだろう。
「どっちも好きな作家だよ。比べる必要はない」
「たしかに」
「東野圭吾は本格ミステリィを書ける人だ。でもそこで競っても先達のマスターピースには及ばないと悟り、路線を変えた」
カウンター脇のPCの前に移動し、ある文庫本のデータを呼び出す。
「よかったら」
「『名探偵の呪縛』ですか」
「先に『名探偵の掟』を」
「覚えておきます。いらっしゃいませ」
老若男女の群れがレジへ押し寄せる。ランチタイムが終わったのだろう。
落ち着いた。腹のへこみ具合と比例するように。
「東野さんって、最初はあまり認められてなかったんですか?」
彼女もナポレオンのポーズを続けている。
「長らく初版作家だったらしい。どの世界でもプロは数字で評価される。つまり売れないということは」
「ですよね。私も手芸本と料理書がずっと前年比マイナスだと店長に渋い顔をされました。やることはやってるのに」
「ただ人気シリーズ以外の単発もので、しばしば彼の秘めた矜持を見出すことがある」
「『流星の絆』もそうだと」
「そこまでは言わない」
「言わないんかい!」
この素直さと明るさが彼女の長所である。それも本人には言わない。
時計の針がなかなか進まぬ。
「お腹が減りすぎて、逆に食べる気がなくなってきました」
「空腹あるあるだな」
「食欲をそそるミステリィって」
「あるよ」
レジを離れた。文庫の棚から抜き出し、大股で戻る。
「どうぞ」
藤原伊織「テロリストのパラソル」(角川文庫)を手渡した。文春文庫からも出ている。
「主人公の作るホットドッグが印象深い」
「どんな感じですか?」
「キャベツの千切りとソーセージ、あとはカレー粉」
「普通ですね。簡単そう」
「30ページを」
こんなやり取りが記されている。
「なるほど。東野さんのミステリィも?」
「あれだって簡単ではない」
「あ、そうか。簡単に見えるものほど難しいって意味だ」
「実用書も一緒じゃないの?」
「たしかに!」
芸人みたいな身振りで人差し指を突き出す。
「店長から『季節ごとの売れ筋が決まってるからラクでしょ』とか言われたんだ。冗談じゃない。そんな簡単な話じゃないんですよ!」
交代時間になった。彼女は事務所へ戻り、遅番のミステリィ好きに「『テロリストのパラソル』のホットドッグってわかる?」と尋ねた。
「食べたことありますよ」
「え? 先輩聞きました?」
「秋葉原の有隣堂だろ。あそこのブックカフェで」
「マジすか!」
早足で奥の女子更衣室に消え、1分後には私服姿で戻ってきた。
「秋葉原まで行ってきます」
「おいおい」
「いまから本を買って電車の中で読みます。今日はホットドッグの気分なんで」
「秋葉原の有隣堂は一昨年の1月に閉店した」
けど、と言葉を繋ぐ。
「俺の知ってる店が近いものを作ってる」
「どこですか?」
場所を告げた。方向は異なるが、秋葉原と同程度に離れている。
「あ、でも帰りが遅れると」
「いい。行ってきな」
「先輩が店長に怒られちゃいますよ」
「店長は今日も明日もいない」
満面の笑みを目の当たりにした。
「ファイナルウェポン、発動します!」