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ハードボイルド書店員日記【104】

「そのやり方、盲点でした」

もうすぐ21時。閉店業務に要する時間は、少し前にレジが新しくなってから15分は縮まった。単純に機械任せのパートが増えたからだが、営業中の人為的ミス減少も大きい。特にお釣りを全自動で排出する機能に助けられている。いまや誤差が出る頻度は町の本屋でカフカ「城」にエンカウントする率と変わらない。かつては沢木耕太郎「深夜特急」だった。

すでに一台のレジは締めが終わり、電源も落としている。動いているのは二台。クレジットのカード会社控えと加盟店控えを数え、枚数を紙に記して輪ゴムで一緒に止める。メモ用紙がもったいないから、ピンクの線が出たロールの残りを捨てずにここで使う。

「盲点?」「その紙を切って枚数を書くやり方です」アルバイトの女の子が前を見ながら話す。一見大人しいがけっこう気が強い。先日は「台風でお隣さんのベランダが壊れて揉めてます。ウチのせいじゃないけど話を詰めたいので休ませてください」という連絡が入った。「誰でも思いつくよ」「この前店長に訊いたら先輩がやってるのを見てみんな取り入れたって」「まだ使えるから」「SDGsですか?」「ってわけでもない。環境問題に関心はある」「前から疑問なんですけど、脱炭素を推進する人たちって原発のリスクをなぜか」「いらっしゃいませ」いいタイミングでお客さんが終わらせてくれた。

あと5分。別のバイトがその旨を大声で話しながら店内を回る。「あれも盲点なんですかね」ぽつりとつぶやく。「何が?」「脱炭素派が原発に反対しないことです」終わってなかった。「どうかな。反対してる人もいるだろうし」「先輩は?」「事故のリスクを発電所の近隣に住む人たちに押し付けたくない。東北では福島原発の電力など1ワットも使っていなかった」「どこ情報ですか?」集英社から出ている山本太郎「ひとり芝居」を勧めた。いまはちくま文庫に入っている。

駆け込みでコミック雑誌と文庫が売れた。「先輩」「ん?」「代替案は?」「代替案?」「原発の」まだ続いていた。「火山大国ゆえの地熱発電と石炭による火力発電が日本には向いているらしい」「それはどこ情報です?」宝島社新書の池田清彦「SDGsの大嘘」を紹介した。「読んでみます」「参考にはなるけど」「全てを鵜呑みにはしません」いい心掛けだ。おかげで仕事を教える方は質問を畳み掛けられて苦労するわけだが。

3500円の腕時計を見る。表情では冷静を装いつつ、心の中は甲子園の阪神ファンだ。あと1分あと1分。「先輩」「ん?」「『盲点』って聞いて何を連想します?」「そうだな」罪のない妄想が途切れた。スクリーンセイバーの終わったパソコンのように。「ちょっと待ってて」コミック売り場へ向かう。

安倍夜郎「深夜食堂」の25巻を手にして戻る。「マンガですか」声のテンションが低い。「さっき『ビッグコミックオリジナル』を買いに来たお客さんがいたんだ。おかげで思い出した」「そこで連載してるんですね」「もう15年ぐらいになる」

シュリンクを破り、ページを慎重に捲る。「これだ」「何ですか」「ポテサラコロッケ」「え?」「ポテトサラダで作ったコロッケだよ」「そんな料理あるんですか?」「主な原材料は一緒だし、あっても不思議じゃない。でも俺はこの本を読むまで存在を知らなかった」「私もです。いま知りました」白い頬がいつしか食紅みたいな色合いに染まっている。上野のガード下で昔食べた鯨ベーコンが頭を過ぎった。「たしかに盲点ですね」好むと好まざるとにかかわらず。内心で勝手に付け加える。村上主義者の遊び心。

すべて終わった。最後の確認をする準社員を残して先に帰る。彼女はシュリンクのかかっていない「深夜食堂」25巻を従業員用の取り置き棚に入れ、鍵を閉めた。「買うの?」「次の出勤日に。チラッと見ましたけど面白いですね。いろいろな業界で頑張る人がいて」「だな」「一話完結だから1巻じゃなくても大丈夫ですよね?」「森鷗外」「それ山椒大夫です」

歩幅を微調整し、従業員用更衣室まで並んで進む。離れ際につぶやかれた。「つくづく盲点ですね」「何が?」「オジさん向けのマンガでも自分に合うものがあるんだなあって。おかげで食わず嫌いが減りそうです」「そうか」マスクの中で下唇を軽く突き出す。たしかに彼女の言う通りだ。少なくとも私は「先輩みたいないろいろな本に詳しい人がこんな身近にいるとは盲点でした!」なんて展開を期待するほど若くはない。

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