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ハードボイルド書店員日記【110】

「元気の出る本が読みたいです!」

通常運転で人手不足な日曜の昼。長蛇の列が入り口から伸びている。条件反射でベルを鳴らした己に苦笑する。来るわけがない。3人しかいないのだ。ふたりがレジで踏ん張り、ひとりはお問い合わせカウンターで注文を受けている。本社のお偉いさんは「どうにか回せているから大丈夫」と考えているのだろう。どうにか回っているうちにどうにかしろ。破綻してからでは遅い。知らないなら近代史を学べ。ウチへ買いに来い。

遅番が出社してきた。代わってもらい、データ確認と補充注文のために事務所へ入る。文庫担当の女性がパソコンの前でぐったりとうなだれている。「大丈夫?」「あ、すいません。さすがに疲れちゃって」「わかるよ」「私、レジは12時半までだったのに30分出られなくて」よくある不条理だ。「いまからこれだとクリスマスとお正月はどうなるんですか?」「まったくだ」「また新規店がオープンしましたけど、そんな余裕があるなら既存店の人数を元通りにすればいいのに」いちいち正論だ。言葉にすることで却って無力さの重力に押し潰される。

「どうしたらいいんですかね」どうしようもない。やるだけだ。わかりきった真実を告げたところで何も変わらない。だからこう返した。「本を読もう」どんなものに興味があるかと訊ねた。

元気の出る本。しばし考える。

ひとつ浮かんだ。淡い笑みと共に。

事務所を出た。講談社文庫の棚から抜き出す。戻る途中でお問い合わせを2件受けた。外に出たら即捕まる。まるでパリのレジスタンスか京都の維新志士だ。

「これいいよ」オノ・ヨーコ「グレープフルーツ・ジュース」を手渡す。「どういう内容ですか?」「40ページを開いてみて」そこにはこんな文章が書かれているはずだ。

「隠れていなさい。みんなが家に帰ってしまうまで。隠れていなさい。みんながあなたを忘れてしまうまで。隠れていなさい。みんなが死んでしまうまで」

「ふふふ、ははは」想像通りのリアクションだ。「面白いですね」「全てがこの調子。『~なさい』という短い命令形だ。60ページもなかなかいい」「60ページですか?」「たしかこうだ。『書き出しなさい。あなたがしたいことを、ぜんぶ。それをぜんぶやってくれるよう誰かに頼みなさい』」「最高!」拍手が起きた。「本社の人たちに言いたいです」こういう活用法が正しいのかはわからない。ヨーコさんは心の広いアーティストだから許してくれるだろう。

「他にもオススメありますか?」「君の好きな食べ物はたしか」「あれですよ」「あれ?」「熱々のコロッケ。あと瓶ビールがあったら言うことなし」思わず顔を見た。肩で切りそろえたつややかな黒髪。私よりひと回りは若いはずだ。「おかしいですか?」「いや、おかしくない」そうだ。何もおかしくない。

「ちょうどいい本がある」覚悟を決めて再びドアを開ける。めずらしく新選組に遭遇しなかった。

新潮文庫の村上春樹「村上朝日堂 はいほー!」を渡す。「小説ですか?」「ゆるゆるのエッセイ集。『うさぎ亭』という定食屋に関するエピソードが絶品なんだ」「定食屋はあまり行きませんけど」「まあまあ」記憶を頼りに91ページを開き、読み上げる。

「無数のパン粉が外に向けてピッピッとはじけるように粒だち、油がしゅうしゅうと音を立てて内側にしみこんでいくのが目に見える」
「それを杉の箸でぎゅっと押さえつけるように切りとって口にはこぶと、ころもがかりっという音を立て、中のポテトと牛肉ははふはふととろけるように熱い」

再び表情を窺う。妖怪に魂を抜かれた子どもみたいだ。「大丈夫?」「あ、はい。作家の人ってすごいですね」「春樹さんは特に」「先輩、ハルキストでしたっけ?」「村上主義者」大事なところだ。彼がノーベル文学賞を望んでいないことと同じくらいに。

「ありがとうございます。少し元気出ました。あとで2冊とも買いますね」そろそろ彼女は休憩の時間だ。私はレジへ戻る。「こういう本だとゆっくり読めていいですね。POP付けて積もうかな。『繁忙期でお疲れの方にオススメです!』って」「いいかもしれない。小説だと続きが気になって、読み耽ると却ってしんどいこともある」「ですよね」「あと疲れていると描写が頭に入って来ない。食べ物を噛まずに飲み込むようなもので、せっかくの栄養が素通りしてしまう」

我ながら的確な比喩を使えた。ちょっとした村上春樹じゃないか。マスクの下でドヤ顔を作る。しかし彼女は何事もなかったように「じゃあ休憩いただきまーす」と更衣室へ消えて行った。

やれやれ。ここにもよくある不条理が。忘れなさい。

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