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ハードボイルド書店員日記【129】

「いっつも続かないのよねえ」

よく晴れた平日。物価の高騰と本の大量入荷が止まらない。時代小説の文庫をいつも買いに来る白髪の男性に「このシリーズ値上げしてない?」と眉をひそめられた。「してます。申し訳ございません」「だよねえ。別にあなた方のせいじゃないからいいんだけど。悪いね気を遣わせちゃって」こういう粋な方が稀にいる。いつまでも元気でいてほしい。

次は年配の女性。初めて見る顔だ。カウンターの上に某出版社が毎年出すスペイン語テキストの4月号が置かれた。

「わかります。私も7年ほど前に同じ講座を」「いつまで続いた?」「7月号が限度でした」「あたしはそんなレベルじゃないの。5月にはついていけなくなって投げ出すんだから。完全にお金の無駄遣いよ。勉強する意味ゼロ」「名詞の性とか動詞の活用が面倒ですよね」「そうそう。イタリア語の方が楽かなって思ったけど、テキストを立ち読みしたら似たような感じで」文法に関してはより高難度かもしれない。「だったら少しでも慣れているスペイン語の方が楽しめるでしょ」「楽しめるということは、学んだ意味があったのかと」まじまじと顔を見られた。

「あなた、いいこと言うわねえ」「ありがとうございます。おつりをお返しさせていただいても?」「あら失礼」「1000円札がウノ、ドス」「トレスね。たしかに。続きはクアトロ、シンコ、シエテ、セイス?」「逆ですね。セイスが6でシエテは7です。あとはオチョ、ヌエベ、ディエス」「駄目ねえ。せめて20までスラスラ言えるようになりたいわ」「16さえ覚えれば、あとは流れで」「そうなの? じゃあちょっと頑張ってみようかしら」「ぜひ」「来月また買いに来ていい?」「お待ちしております」家に帰ったら久し振りにテキストを開こうかと考えた。

春はいろいろな人が来る。

「なんかやる気の出る本、ないすか?」後ろ髪の跳ねた若い男性。近隣のキャンパスに通う大学生だろう。ある意味潔い。「ジャンルの希望はございますか?」「なんでも。サラッと進む感じで」こういう人には「気軽に手に取れないけど、読んだら大きな衝撃を受ける本」を勧めたい。トーマス・マン「魔の山」とか。

本音とは裏腹に1冊の新書を棚から取ってきた。「こちらなどいかがでしょう?」朝日新聞出版から出ている森博嗣「夢の叶え方を知っていますか?」を手渡す。表情が冴えない。「ピュアな夢は人生の支えになる」という帯を冷ややかに見下ろしている。「魔の山」の足元にも及ばぬ低い場所から。

「面白いですか?」「同じ値段と薄さのハウツー本よりは」やや本音。気圧されたようにページを開いた。見透かされたと感じたのかもしれない。「まずは57ページを」こんな一文があったはずだ。

「与えられたものからでも、自分が熱中できるものを見つけて、そこへ向かって自分の道を切り開いていける人は幸運である」

「…店員さんもそうなんですか?」「書店員になるのが夢だった、という人はあまりいない気がします」「ああ」「しかし書店で働くことを通じて、人生の楽しみを増やす試みは多くの従業員がおこなっています」「好きな本にPOPを書いたり?」「あとは良書を選んで注文し、商売に結びつけるとか。出版社や本社ではなく、自分発でフェアを開催する人もいます」「やったんすか?」「だいぶ前ですが、プロレスが好きなので『燃えろ!新日本プロレス』というパートワークのフェアを」「売れました?」「まあまあ」「楽しかったですか?」「とても」

「他には」「はい?」「この本、他にはどんなことが」「104ページにも感銘を受けました」たしかこんなことが書かれていた。

「自分が決めた目標を達成できないと腹が立つけれど、不可抗力もあり、突発事故もある。精一杯やったのであれば、許せるのではないだろうか」
「ようするに、夢の本質とは、自分を楽しませることだ。自分を縛りつけるために夢を目指すのではない」

ページにじっと見入っている。後ろへお客さんが並び始めた。「夢、ありますか?」「本を出すことです」「電子?」「紙で」「叶いそうですか?」「わかりません。挑むプロセスを楽しんでいるつもりです」「実現しなかったら?」「元は取れたと納得します」

買ってくれた。私とよく似た夢を抱いているらしい。帰り際に「いつか小説家になれたら、今日のことを書いていいすか?」と訊かれた。もちろんと返す。たぶん俺が先に書くけど。内心で付け加えた。

類は友を呼ぶ。彼女や彼を本屋に引き寄せたのは、あるいは私だろうか。もしそうなら、挫折と失敗を繰り返した人生にも少しは意味があったのかもしれない。

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