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ハードボイルド書店員日記【218】
「俺、やめるよ」
三が日の朝。いきなりの告白。客注担当を務める先輩だ。この店がオープンした頃から在籍しているらしい。ずっと非正規雇用だが、彼の意見や発言はある意味で店長クラスの影響力を有している。
「やめるんですか」
「やめる」
「あと一か月?」
「それぐらい」
「やめた後は」
「まだ考えてない」
「いまの感じ、夏目漱石みたいですね」
「『二百十日』だろ」
こんな会話がもうできなくなる。
店内はまだ静かだ。あと数分もすれば、理不尽なまでの群れが途切れることなくカウンターへ押し寄せる。映画「タイタニック」を思い出した。
「俺たちの仕事って、本や文房具や雑貨を主に扱うってだけで、それ以外はスーパーやコンビニと変わらないよな」
「ですね」
「書店員ではなく販売員。俺らは正社員じゃないから、会社からしたらそれで十分なのかもしれない。最低賃金だし、言われたことを契約時間内にこなしていれば文句ないんだろうよ」
黙って頷いた。
「たださ、俺はあまりにも長くこの店に居座りすぎた。裏の実態を見ていたら嫌でも確信するんだよ。こんな連中が仕切っている会社はじわじわ沈んでいくだけだってな」
「他の書店チェーンは違うかも」
「まあな。もういい歳だから未経験は厳しい。そこも考慮に入れて職探しをするよ」
「○○さんだったら大丈夫では?」
「そんなことはない。長くいるからそう映るだけさ。俺は自分を買い被ってない。またどこかの本屋でイチから働くことになるんだろうな」
お客さんの数が増えてきた。外国人も少なくない。
「……なあ」
「はい」
「いい本を紹介してくれよ。元気が出るやつ」
「何でもいいんですか?」
「何でもいい」
「漫画でも?」
「漫画でも。むしろ読みたい」
「あまり読まないですよね」
「最後に集めたのは『こち亀』かな」
「200巻揃えたんですか?」
「まさか。半分ぐらいだよ」
「半分でもすごいです」
「実家暮らしだからできることだ」
「なるほど」
諸々の事情で実家を出られない書店員は少なくない。彼もそのひとりだ。かつてはひとり暮らしをしていたが、体調を崩したことがきっかけで戻ったらしい。
「家賃も電気代も払わなくていいから、このご時世で仕事やめるなんて気楽に言えるんだよ」
「そんなことは」
「俺の歳で独身の実家暮らしって、本人にとってはけっこうな屈辱だぞ。でも俺がいないと店は回らない。そもそも客注担当なんていちばんの爆弾処理班だろ?」
「ですね」
「家庭の事情で突然休むことはないし、地方へ帰省もしない。大型連休に有休を取ることも。今日だって休みたいのを我慢して出勤してる」
「ええ」
「つまりこの職場で働く人間は、誰も俺を下に見ることはできない」
「誰も見てないですよ」
「お前はそうだろう。でも他はどうかな?」
「……」
「でもいいんだ。もう割り切ってる。これが俺の人生なんだ。多数派と違うとかどうでもいい。俺を嗤う連中が俺を幸せにしてくれるわけでもないしな。言いたいやつには言わせておく。そいつらのために生きてない。俺は俺のやりたいこと、できることをやるだけさ」
コミック売り場から魚豊「チ。-地球の運動について-」(小学館)の1巻を取ってきた。シュリンクを剥がして手渡す。
「世界を敵に回して地動説に人生を懸ける話か」
「66ページを開いてみてください」
そこには、こんなやり取りが描かれている。
そ、そんな人生…怖くはないのですか?
怖い。
だが、怖くない人生などその本質を欠く。
先輩はしばしそのページに見入っていた。やがて最初へ戻り、慣れた手つきで読み進める。
「ありがとう」
「えっ?」
「とてもいい作品だ。教えてくれた恩は忘れない」
「そんな大袈裟な」
「大袈裟じゃない。本当はお客さんにとってそういう恩人になれる仕事をこの店でしたかった」
「○○さんはやってますよ」
「どうだろうな」
にこやかな家族連れが様々な方向からレジへ近づいてきた。いずれも絵本や学習参考書、文房具などが大量に放り込まれたカゴを携えている。満場一致で幸せそうな光景。地獄絵図の一端を読み取るのは従業員だけだ。
「……ひとつ訊いていいか?」
「どうぞ」
「俺がここをやめるの、ぶっちゃけどう思う?」
「136ページを」
先輩が開くのを横目で確かめた。
この選択は…君の未来にとって”正解”だと思うのか?
そりゃ不正解でしょ。
でも不正解は無意味を意味しません。
そこから退勤までどう過ごしたか、ほとんど記憶に残っていない。ひたすら作業用マシーンに徹した。
彼みたいな従業員が誰に讃えられることもなく現場を支えている。せめてその事実をひとりでも多くの方に伝えたい。
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