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ハードボイルド書店員日記【210】

「昨日初めて神保町の古本まつりに行きました」

開店直後の週末。マスクの下で欠伸を噛み殺し、四六判のカバーを折る。数か月前に入った男性アルバイトに声を掛けられた。

「混んでた?」
「めちゃめちゃ混んでました」
「何か買った?」
「村上春樹の単行本を」
「タイトルは?」
「何でしたっけ。えーと鼠が出てきて」
「『羊をめぐる冒険』?」
「いえ」
「『1973年のピンボール』?」
「でもなく」
「じゃあ『風の歌を聴け』だ」
「それです」
群像新人文学賞を獲った処女作だ。
「もしかして春樹さんの本を読むのも初めて?」
「実はそうなんです。ずっと興味あったんで、いい機会だなと思って」
「たしかに」
デビュー作の単行本からスタートできるのは、ちょっと羨ましい。

「高かったんじゃない?」
「300円でした」
「300円? ああ初版じゃないのか」
「たしか『一九八三年 十一刷』と」
刊行は1979年のはず。その頃の新刊小説の販売ペースがどういうものかは知らない。だが版を相当重ねているし、ヒットしたのは間違いない。
「よくそんなところまで見てるね」
「自分も初版かどうかが気になって。コレクターじゃないし、ちゃんと読めれば何でもいいんですけど」
「当時はいくらで買えたのかな」
「帯に定価850円と」
言葉に詰まった。
「いまじゃ考えられないですよね」
「それはあれだ。講談社文庫版の51ページ」
こんな文章が記されている。

それは「ミッキー・マウス・クラブの歌」だった。こんな歌詞だったと思う。
「みんなの楽しい合言葉、MIC・KEY・MOUSE。」
確かに良い時代だったのかもしれない。

「風の歌を聴け」 村上春樹 講談社文庫 51P

レジを打つ。カバーを掛ける。電話を取る。お問い合わせに対応する。隙間時間に翌日以降の新刊や雑誌の入荷状況をチェックする。いつもの繰り返しだ。一方でまったく同じ日は存在しない。返品伝票に押す番線印のインクのかすれ具合ですら、ひとつひとつ微妙に異なるのだ。

「先輩は小説書いてるんでしたっけ?」
「まあ一応」
「新人賞に応募してるんですか?」
「いまはやってない。匿名でネットに出すだけ」
「『風の歌を聴け』を読んでたら、ぼくも書きたくなってきました」
「よくわかるよ」
何を書いたらいいかわからない、というところまで。
「でも何を書いたらいいかわからなくて」
「……」
「参考までに先輩はどういうものを?」
「家に帰ったら『風の歌を聴け』の28ページを開いてみな」
こんな見解が綴られているはずだ。

鼠の小説には優れた点が二つある。まずセックス・シーンの無いことと、それから一人も人が死なないことだ。

「風の歌を聴け」 村上春樹 講談社 28P

「……なんかぼくの知っている春樹さんとはイメージが」
「人は変わっていくものだから」
「先輩は初期の方が好きですか?」
「誰かが話してたよ。『プリーズ・プリーズ・ミーとレット・イット・ビーに優劣を付ける試みほどナンセンスなものはない』」
「何のことです?」
「ビートルズ」
「誰が言ったんです?」
「俺」

考えても詮無いことだ。自分が生きているのは、生きていられるのはこの時代だけ。もう答えは出ているじゃないか。

大量の外国人観光客が押し寄せてくる。愛想笑いの仮面を被り直し、ベルを一度鳴らした。よく似ていて異なる一日の始まりを告げるように。

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