ハードボイルド書店員日記㉒
「出張販売」の仕事がたまに来る。
高校まで出向いて学生相手に教科書を売ったり、ビッグサイトで行われる「東京国際ブックフェア」でレジに立ったり。非日常の空間へ足を運ぶと、しばしば思いがけない出会いに恵まれる。
九段下の駅から地上に出た。靖国通りを市ヶ谷方面へ進み、内堀通りへ左折。少し歩くと「イタリア文化会館」のビルが見えた。
がらんとした部屋に入る。長い木のテーブルが壁に沿う形で並び、イタリア関連の本がジャンル別に置かれていた。旅ガイドや小説、エッセイ、歴史書、料理本など。ラファエロやミケランジェロの画集も見える。イベントへ来場した客にこれらを売るのが私の仕事だった。
本社の外商担当の人から説明を受ける。私と同年代か少し年下の女性だ。支払い方法は現金とクレジットのみ。クレジットの端末はモバイルタイプだった。形状はトランシーバーに近い。「ロールがすぐになくなるから注意してくださいね。あと」「残りわずかになると紙が丸まってサインを貰うのが面倒、ですよね」心強い、と白い八重歯を見せた。
イベントが始まったらしく、下のフロアが騒がしくなった。だが客はほとんど来ない。私が奥のレジに立ち、彼女は入り口の前に控えていた。
「イタリアに行かれたことは?」不意に質問が飛んで来た。「いや」「私も。でもいつか行きます。ミラノでサッカーを見たいんです」「サンシーロ?」いいえ、とまた八重歯がちらつく。「ジュゼッペ・メアッツァです」インテルのファンは本当にサンシーロとは呼ばないらしい。
ACミランにいたイブラヒモビッチのユニフォームをワイシャツの下に着て出勤し、朝礼で注意されたというエピソードを話した。「本当ですか?」「残念ながら実話です。おかげでこの出張販売はおまえが行けと」彼女はカブトムシの幼虫みたいに身体を丸め、お腹を押さえて笑い続けた。
近くの中華料理店で昼食を済ませ、1階のロビーでソファに座った。家族連れの客がいくらかいるだけの平和な空間だった。ビール腹の陽気なおじさんがエントランスでカラオケを始めた。ベテランのネイティブ講師だと後で聞いた。「トゥヴォファラメリカーノ メリカーノ」と歌っていた。映画「リプリー」でも使われたポピュラーソングだ。
立ち上がって「マッスィベーヴィ ウィスキアンソーダ」と合わせた。おじさんが振り返り、赤く染まった満面に笑みを浮かべて手招きをした。肩を組んでマイクを共有した。客が集まってきて軽い騒ぎになった。「トゥヴォファラメリカ トゥヴォファラメリカ!」万雷の拍手に包まれた。手を叩く群れの中に彼女の姿を見つけた。
「イタリア語で歌えるなんてすごい!」レジに戻ると私を見る目が変わっていた。「映画が好きで何度も見たから音を自然に覚えただけですよ。意味もわかってないし」「それでもすごいですよ。私も勉強しなきゃ」帰り際に語学書と辞書を購入していった。
数年後、私宛の寒中見舞いが店に届いた。彼女からだった。すでに会社を辞め、ミラノで日本語講師をしていた。裏は写真だった。白いブラウスの下にインテルの青いユニフォームが透けている。辞書を開き、八重歯の横で「Americano」を指差していた。「どういう意味?」店長が首を傾げる。聞こえなかった振りをし、私は腹を押さえながらレジに戻った。
※ 文筆に関するご用命は、ridersonthestorm1119@yahoo.co.jpで承ります。