HKA(5)宮島の管弦祭は、広島城下から「お供船」が繰り出す幽玄の世界だった!
厳島「管弦祭」の今昔
毎年、旧暦6月17日(新暦では8月初めころ)に行われる、有名な宮島の「厳島管弦祭」。
戦前までは、大勢の広島市民が「厳島管弦祭」に参加していました。
市民たちによって作られた大船団が、各町内ごとに漕ぎ出して、宮島まで「海上パレード」をしていたのです!
その大船は、「御供船(おともんぶね)」と呼ばれていました。市民たちはそれに乗って、元安川や京橋川を下り宮島まで行き、管弦祭に参加しました。
「御供船」の船尾には、豪華な「艫飾り(ともかざり)」が飾り付けられていました。
上の写真で、船の後ろ側にある大きな四角いものが「艫飾り」です。
縦2.8m、横2.5mもある立派なもので、金糸銀糸で刺繍されており、弁慶の図柄などでした。
広島の詩人で小説家でもある、原民喜さんは、次のように描写しています。
最近、被爆を免れて残っていた、この「艫飾り(ともかざり)」が発見されたというニュースがあり、注目されています。
参考:金銀で弁慶の刺しゅう 明治の「御供船」艫飾り発見 広島原爆免れ (msn.com)
また、厳島神社の「管弦祭」だけではなく、この旧暦6月17日は、広島城下でも「厳島大明神」の例大祭の日でもありました。
かつて、現在の「平和公園」あたりにあった「誓願寺」「厳島大明神」でも、大勢の人々が集まって祈りを捧げていたのです。
詳しくは、以下のリンク先をご参照ください。
日本三景「安芸の宮島」は江戸時代から
江戸時代に、厳島神社への参詣が「大バズリ」
江戸時代の寛永年間(3代将軍 徳川家光のころ)の儒学者、林春斎(はやししゅんさい:林羅山の三男)の著作の中に、以下の記述があります。
これが「日本三景」という言い方の始まりと言われており、「安芸の厳島(宮島)」という言葉が初めて登場したものと言われています。
「東海道中膝栗毛」を著した十返舎一九も、文化8年(1811)に出版した『続膝栗毛 二編(上下)』の中で、「宮島参詣」を描いています。
歌川広重も『六十余州名所図会 安芸 巌島祭礼之図』を描いて人気を博し、折からの寺社への参詣・参拝ブームに乗って、「安芸の宮島」は全国的に有名になりました。
広島藩政期の宮島
「物流拠点」だった宮島
安土桃山時代に日本を訪れた南蛮人は、「厳島(宮島)」を「堺」と同様の港町として認識していました。つまり、瀬戸内海の海運の拠点として重要な港だったのです。
戦国時代、毛利氏の支配下のころは、宮島の「塔の岡」(厳島神社のすぐ東の岬あたり。五重塔や千畳閣がある付近)に、代官の屋敷がありました。
浅野氏の広島藩政期でも、塔の岡に「宮島奉行所」が置かれ、島内の司法や行政を担っていました。
宮島は「広島城下への外港」として重要な拠点だったからです。このため、宮島問屋が繫栄し、商業が盛んになって行きます。
広島湾は水深が浅く大船が着岸できる場所が少なかったのです。瀬戸内海を通る物資は、いったん荷物を宮島に下ろして、小舟に積み替えてから広島城下へ運んでいたのでした。
「一大遊興地」だった宮島
寛永2年(1625)、広島藩は、城下での芝居・相撲・見世物の興業を禁止しました。そのため、これらの娯楽施設は、宮島に移転することになりました。
こうして、娯楽を求める人々が、広島城下からのみならず、中四国や九州からも、宮島へ押しかけるようになったのです。
また、厳島神社の「富くじ」も興行され、年に4回の市も立ち、春夏秋の年3回、歌舞伎の興業も始まって、「一大遊興地」としても、ますます繁栄しました。
現在も「世界遺産 厳島神社」として、多くの観光客が訪れる場所になっていますが、江戸時代からも「安芸の宮島」は多くの人々から愛される有名な場所だったのです。
尚、表紙の写真は 黒田きのと|note さんのものをお借りしました。誠に有難うございました。