BUNTALK

皆さんの「広島」のイメージって、どんなものですか? 「芸州広島愛」に目覚めた BUNTALK(文・トーク)が、知られざる「戦前の城下町 広島」の歴史・文化・生活を発信します。この記事が、皆さんご自身の「ルーツ」や「故郷」を考える際の一助になってくれたら、嬉しいです!

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皆さんの「広島」のイメージって、どんなものですか? 「芸州広島愛」に目覚めた BUNTALK(文・トーク)が、知られざる「戦前の城下町 広島」の歴史・文化・生活を発信します。この記事が、皆さんご自身の「ルーツ」や「故郷」を考える際の一助になってくれたら、嬉しいです!

マガジン

  • 広島郷土史(明治大正昭和編)

    広島の「明治大正昭和期」の文化や伝統行事などについて紹介します。あまり知られることのない広島の城下町が原爆で失われる以前の人々の生活や息づかいをお伝え出来たらと思います。

  • 広島郷土史(江戸・幕末編)

    浅野氏による広島藩の統治下での話題と幕末の広島藩についての話題を集めました。あまり知られることがない、原爆で城下町が失われる以前の、広島の伝統文化や政治状況についてご紹介します。

  • エッセイ(比呂暇太郎の広島今昔語り)

    比呂暇太郎(ヒロ・ヒマタロウ)が、「広島の今昔」を広島弁全開でしゃべりまくるというエッセイです。昭和レトロな芸能・文化の話題や、懐かしい広島の昔を語ります。

  • note小説集

    ・「電脳畑でつかまえて」上司に新しいスマホを勧められたヒロトは…… ・「ナイト・プール・ブギ」高校最後の体育祭に燃える3人の仲間たち…... ・「モネの日傘をさす女」パリのオルセー美術館で主人公が見たものは…… ・「YES!オノ・ヨーコ」就活で「お祈り」された主人公が…... ・「ようこそわらしべカフェへ」物々交換できるカフェでの人間模様…...

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はじめまして! 広島への郷土愛に目覚めた、BUNTALK(文・トーク)です。Noteには、主に「戦前の城下町広島」の歴史や文化、生活等をテーマにした、エッセイや小説などを投稿します。 県外への「転出超過」がワースト1位の広島 広島県が、2023年度「転出超過 全国ワースト1位」になってしまいました。若者が、どんどん県外に出てしまっているのです。 これは、広島には魅力がない、ということなのでしょうか? 少子高齢化に加え、若者世代の人口減少が加速することは地方の根幹を揺るがす

    • HKB(14)「取り舵一杯!」加藤友三郎、軍縮に舵を切る!(3/3)

      この記事は 1/3~3/3 3部構成になっています。まだ 2/3 をお読みでない方は下のリンクからどうぞ 加藤友三郎、ワシントン会議に出席する加藤友三郎は、第二次大隈重信(おおくましげのぶ)内閣の海軍大臣に就任して以来、寺内正毅(てらうちまさたけ)、原敬(はらたかし)、高橋是清(たかはしこれきよ)内閣と4代の内閣にわたって海軍大臣を歴任します。 1921年(大正10年)、アメリカは、日英仏伊4か国に対し軍備の制限とアジア太平洋地域の問題を討議する会議を提案して来ました。

      • HKB(13)「取り舵一杯!」加藤友三郎、軍縮に舵を切る!(2/3)

        この記事は「1/3~3/3」の3部構成になっています。まだ「1/3」をお読みでない方は、下のリンクからどうぞ 加藤友三郎、日露戦争の日本海海戦に参加する1904年(明治37年)に始まった日露戦争では、加藤友三郎は、連合艦隊「第2艦隊」参謀長の職にありました。 ところが、途中で「第1艦隊」参謀長兼「連合艦隊」参謀長の島村速雄と入れ替わることになります。 友三郎を移動させる人事は、かねてより加藤友三郎を信頼していた山本権兵衛(やまもとごんべえ)海軍大臣の発案だという説がありま

        • HKB(12)「取り舵一杯!」加藤友三郎、軍縮に舵を切る!(1/3)

          加藤友三郎、海軍兵学寮に合格する2024年9月。 加藤友三郎(かとうともさぶろう)の銅像が、広島市中区の中央公園に帰ってきました! 広島の新サッカースタジアム、「エディオンピースウイング広島」の建設工事のため一時移動していましたが、スタジアムが完成し、もとに戻されたのです。 加藤友三郎は、広島県出身の初の総理大臣(第21代)となった人物でした。 彼は、日清・日露戦争で活躍した海軍軍人であり、首相在任期間も短かったため、歴史の教科書に取り上げられることも少なく、知名度は

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        • HKB(14)「取り舵一杯!」加藤友三郎、軍縮に舵を切る!(3/3)

        • HKB(13)「取り舵一杯!」加藤友三郎、軍縮に舵を切る!(2/3)

        • HKB(12)「取り舵一杯!」加藤友三郎、軍縮に舵を切る!(1/3)

        マガジン

        • 広島郷土史(明治大正昭和編)
          15本
        • 広島郷土史(江戸・幕末編)
          10本
        • エッセイ(比呂暇太郎の広島今昔語り)
          15本
        • note小説集
          14本

        記事

          HKB(11)日本に電話を広めた沖牙太郎の起業家精神(後編)

          この記事は「前編・後編」の2部構成となっています。前編をまだ お読みでないかたは、以下のリンク先から是非どうぞ 沖牙太郎、「明工社」を起業する「ヤルキ社」を設立してから、沖牙太郎はこう考えるようになりました。   「世運の趨勢を察するに,文明の進歩はしんしんとして 留まる所を知らず,就中、なかんずく電気の応用に至つては,到底測り知るべからざるものがある。如しかず、速かに官を辞して、将来に望み多き電機製造業を興し,国運発展の大勢に乗じて,自己の運命を開拓せん」   沖牙太郎は

          HKB(11)日本に電話を広めた沖牙太郎の起業家精神(後編)

          HKB(10)日本に電話を広めた沖牙太郎の起業家精神(前編)

          沖牙太郎、広島を飛び出して上京する2024年(令和6年)の日本の携帯電話加入数は、約2億2000万件だそうです。また、固定電話の加入数は約6000万件となっています。 従って、携帯電話と固定電話の合計加入数は、約2億8000万件となります。(総務省統計局資料による)   日本で「電話事業」が始まったのは、1890年(明治 23年)年のことでした。当時の加入者数は、わずか197件でした。 つまり、この134年間で「140万倍以上」に増加したことになります。   今回は、日本に

          HKB(10)日本に電話を広めた沖牙太郎の起業家精神(前編)

          HKB(9)「赤ヘル軍団カープ」のルーツは「ルーツ監督」だった!(後編)

          この記事は「前編・後編」の2部構成です。「前編」をまだお読みになっていない方は、以下のリンク先から是非どうぞ。 ルーツ監督、審判と戦う1975年のシーズンが始まると、ルーツ氏はフィールドでも「闘争心」をむき出しにします。   これまで弱気になっていたカープの選手たちは、アンフェアな判定をする審判に対して抗議もできず、「泣き寝入り」をしてしまう傾向がありました。 そこでルーツ氏は、審判のアンフェアな判定があると即座にベンチを飛び出し、猛然と「抗議」してみせました。   自分が

          HKB(9)「赤ヘル軍団カープ」のルーツは「ルーツ監督」だった!(後編)

          HKB(8)「赤ヘル軍団カープ」のルーツは「ルーツ監督」だった!(前編)

          アメリカ海兵隊出身だったジョー・ルーツ氏1974年(昭和49年)、ロリン・ジョセフ・ルーツ氏(Rollin Joseph Lutz)が、「広島東洋カープ」の一軍打撃コーチとして来日しました。 第2次大戦後、ルーツ氏は、1951年までアメリカのメジャーリーグに在籍していましたが、現役引退後は、高校や大学の野球チームのコーチなどを歴任しました。 やがて、クリーブランド・インディアンズ(現ガーディアンズ)の打撃コーチになりましたが、1973年に退任します。   その後、縁あっ

          HKB(8)「赤ヘル軍団カープ」のルーツは「ルーツ監督」だった!(前編)

          HKA(10)「広島カープ」の由来は頼山陽の長男、頼聿庵(いつあん)の書?(後編)

          この記事は「前編・後編」の2部構成となっています。まだ前編をお読みでない方は、下のリンク先から是非、お読みください。 書の才能は、父の頼山陽を凌ぐと言われた頼聿庵頼山陽の息子である頼聿庵(いつあん)は、このころ津具雄(つぐお)と名付けられ、頼家で養育されていました。祖父の春水は、ゆくゆくは頼家を「継ぐもの」として聿庵に期待を寄せていたのでしょう。 山陽が脱藩の罪で廃嫡されたことにより、頼家の養子として春水の弟である春風の子、頼景譲(けいじょう。山陽のいとこ)を迎えることに

          HKA(10)「広島カープ」の由来は頼山陽の長男、頼聿庵(いつあん)の書?(後編)

          HKA(9)「広島カープ」の由来は頼山陽の長男、頼聿庵(いつあん)の書?(前編)

          頼聿庵(いつあん)の書にある「鯉魚城」の文字1949年(昭和24年)のこと。 広島2区選出の衆議院議員、谷川昇氏は、広島にプロ野球の球団を創設すべく各方面と連携して様々な運動を展開していました。   谷川氏は、新球団の愛称を何にするべきかについても思案しています。 候補には、レインボー(虹)、アトムズ(原子)、ブラックベア(黒熊)、ピジョン(鳩)、グリーンズ(緑)、カープ(鯉)などがあったそうです。   谷川氏は、こう考えました。 「広島市を流れる太田川は鯉の産地。広島城は

          HKA(9)「広島カープ」の由来は頼山陽の長男、頼聿庵(いつあん)の書?(前編)

          比呂暇太郎(15)1994年、夏。斎藤和義さんの「歩いて帰ろう」を聴いていた……

          30年前から日本は「猛暑」だったんよ!まだまだ暑い日が続いとるのう!   久しぶりじゃのう わしじゃあーや 比呂暇太郎じゃあや みんな 大丈夫かの? 夏バテ しとらん?   ほいでの こがいな「猛暑」は 30年前から始まっとったって知っとった? 「1994年(平成6年)猛暑」言うてからの この年から 急に 猛暑日が増えたんと!   1994年以前の日本では 「35度以上」の猛暑日は 「年間で2日以下」しかなかったのが 1994年から「年間6日以上」に増えたんとィね!   広

          比呂暇太郎(15)1994年、夏。斎藤和義さんの「歩いて帰ろう」を聴いていた……

          note小説:「電脳畑でつかまえて」(3/3 最終話 約4500字)

          *この小説は、記事3話の構成となっていますので、第2話をまだお読みでない方は、以下のリンク先からどうぞ * * * 時計が、午後5時を回ろうとしていた。 僕は、万里小路さんがオフィスを出るのをじっと待っていた。今度こそは、会社を出た後に彼女を捕まえて、真相を確かめるつもりだ。   「じゃーん! 小杉先輩っ!」 日葵さんが、僕のデスクのパーテーション越しに、いきなり顔を出した。 「うわっ、なあんだ、日葵さんか。びっくりしたなあ!」   「見積もりの直し、あれで良かったですか

          note小説:「電脳畑でつかまえて」(3/3 最終話 約4500字)

          note小説:「電脳畑でつかまえて」(2/3 約3000字)

          *この小説は、3話構成となっていますので、第1話をまだお読みでない方は、以下のリンク先からどうぞ。 * * * オフィスに戻ると、僕と万里小路さん以外、もう誰もいなかった。 ガラス越しに万里小路さんの部屋を覗くと、彼女はちょうど肩にバッグを掛けて帰ろうとしていた。   少し迷ったけど、報告は明日でもいいかと思い直して、僕は自分のデスクに座り、パソコンを起動して、今日の議事録を作り始めた。 そのとき、彼女が足早に部屋を出て、お先にー! と僕に声をかけながら、エレベーターへ向

          note小説:「電脳畑でつかまえて」(2/3 約3000字)

          note小説:「電脳畑でつかまえて」(1/3 約3500字)

          *この短編小説は、庄司薫氏の「赤頭巾ちゃん気をつけて」(1961年、第61回芥川賞受賞作)へのオマージュです。 * * * そう遠くないうちに、スマホはマイクロチップのように小さくなって、耳たぶの中に埋め込まれる日がやって来るだろう。それがスマートグラスと連動して、眼の前に様々な情報が映し出されるようになる。 文字通り、スマホは僕らの前頭葉と、ひとつになるのだ……。   そんなことを考えながら、僕はデスクの上に置いてあるメタリックパープルのスマホを、ただぼんやりと見つめて

          note小説:「電脳畑でつかまえて」(1/3 約3500字)

          HKB(7)チャップリンの秘書だった高野虎市の「警鐘」(後編)

          *本稿は、「チャップリンの秘書、高野虎市の「警鐘」(前編)」の続きになります。前編をお読みになっていない方は、リンク先の「前編」も是非どうぞ。 高野虎市、チャップリンの秘書をクビになる!ポーレット・ゴダードの浪費癖に「警鐘」を鳴らす 昭和12年(1932)、アメリカに帰ったチャップリンは、「モダンタイムス」の製作に取り掛かります。その時、主演女優を務めたポーレット・ゴダードと知り合います。 チャップリンとポーレット・ゴダードは、その後急接近し、やがて一緒に暮らすようにな

          HKB(7)チャップリンの秘書だった高野虎市の「警鐘」(後編)

          Noteを初めて4か月。多くのビューとスキに感謝致します!(8/6に捧げる投稿)

          ご挨拶Noteで「ひろしまさんぽ」を初めて約4か月が経ちました。これまでたくさんの方々に小生の記事を読んでいただき、また、数多くの「スキ」をいただいたことに、感謝の気持ちでいっぱいです。 この場を借りて、改めて御礼申し上げます。 これまで、戦争で失われてしまった「知られざる戦前の城下町広島」を、少しでも多くの方にお伝えしたい、という思いで続けてきました。小生の記事が、皆様にとって何かの「気づき」になってくれていたら幸いです。 *サイトマップはこちらです  → ひろしまさ

          Noteを初めて4か月。多くのビューとスキに感謝致します!(8/6に捧げる投稿)