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HKB(5)100年前のトリビューン(護民官)だった荒川五郎議員の「大予言」


荒川五郎氏、苦学の末、衆議院議員に当選!

荒川五郎氏、船越衛(ふなこしまもる)を頼り、上京する

戦前の、国会が「帝国議会」と呼ばれていた頃のことです。
明治37年(1904)、荒川五郎氏は、第9回衆議院議員選挙に広島選挙区から立候補し、初当選を果たしました。39歳の時でした。
 
荒川氏は、慶応元年(1865)に広島県山県郡八重村(現北広島町)で、刀鍛冶、荒川柳助の五男として生まれました。
 
広島県師範学校高等師範科に進み、小学校の教員となりました。若くして校長にもなりましたが辞職し、志を抱いて上京します。
明治22年(1889)、24歳にして日本法律学校の一期生として入学し、四年後に首席で卒業しました。

若き日の荒川五郎氏(出典:日大公式HPより)

荒川氏が東京で身を寄せたのは、同じ広島出身で元老院(げんろういん)議官であった船越衛(ふなこしまもる)のもとでした。
 
船越衛は、尊王攘夷派の広島藩士で、幕末の京都で活躍したひとです。
土佐藩の中岡慎太郎や板垣退助らとも親交があり、「薩土倒幕の密約」にも関わっていました。
 
土佐藩が大政奉還論に傾くと、広島藩執政、辻将曹(つじしょうそう)の命を受けて広島に戻り、国元の意見を大政奉還へと取りまとめるべく奔走しました。
 
維新後、船越衛は、兵部省や内務省勤務を経て、千葉県令を勤めたのち、元老院議官となっていました。そのころ、荒川五郎氏が上京して来たのです。

元芸州広島藩士 船越衛 (出典:Wikipediaより)

日本法律学校の創始者、山田顕義(やまだあきよし)

日本法律学校とは、長州藩出身の山田顕義(あきよし)が創立した「フランス流」の法律を学ぶ私学校でした。ここで、山田顕義についても解説しておきましょう。
 
彼は、吉田松陰にその才能を愛された松下村塾の門下生であり、高杉晋作と行動を共にした尊王攘夷の志士です。
第二次長州征伐では、周防大島沖に停泊していた幕府艦隊を高杉が夜中に奇襲攻撃した際、山田顕義が長州藩の軍艦、丙寅丸(へいいん)の砲隊長を勤めていました。
 
高杉晋作が死の床に伏したとき、「奇兵隊の後事を託せるのは、大村益次郎か、山田市之允(いちのじょう:のちの顕義のこと)……」と周囲に語ったと伝わるように、山田顕義は軍事的な才能に恵まれていました。

奇兵隊初代総督 高杉晋作(出典:Wikipediaより)

山田顕義は、戊辰戦争で各地を転戦した際、河井継之助の指揮する長岡藩とも戦っています。西郷隆盛も彼の用兵の才に驚き、「あの小わっぱ、用兵の天才でごわす」と褒めていたほどでした。
維新後は陸軍(兵部省)で活躍し、明治10年の西南戦争にも従軍しました。
 
その後、山田顕義は、山縣有朋(やまがたありとも)が推進していた「徴兵制度」に断固として反対します。欧米遊学の経験から、「法律の整備が軍事よりも優先すべき」と考えたからです。
 
山田顕義が、「兵は凶器なり」という中国の戦国時代の兵法家、尉繚子(うつりょうし)の一節を引用した「上申書」を政府に提出したことから、山縣有朋と激しく対立します。その結果、山田は陸軍を去らざるを得なくなり、司法省へと転じて行きました。その後、山縣有朋は陸軍を牛耳ることになります。
 
荒川五郎氏が上京したころは、山田顕義は司法大臣として「民法」や「商法」の整備を行っていたころでした。

山田 顕義(出典:Wikipediaより)

荒川五郎氏、衆議院議員広島選挙区に立候補する

さて、話しを荒川五郎氏に戻しましょう。
 
広島藩の攘夷志士だった船越衛は、維新の前後から山田顕義とも旧知の仲だったはずです。それ故、船越は荒川五郎氏に、山田顕義の設立した日本法律学校への入学を勧めたのだと思われます。
 
荒川五郎氏は、船越衛のもとに書生として住み込み、夜間は日本法律学校で法律を学び、昼は家庭教師や筆耕をしながら法律の勉強を続けました。
 
彼は成績優秀であったため、仲間たちから高等文官試験や裁判官判事の採用試験を受けるようにと勧められます。しかし、荒川氏は卒業後官途に就くことを望まず、一旦は、帝国海上保険会社(現在の損保ジャパン)に勤めます。その後、日本法律学校の事務長兼教務主任として母校に戻っています。
 
荒川氏は、薩長の藩閥政治の横行していた当時の政官界のなかで、同郷の先輩である船越衛や、長州藩出身でありながら陸軍を追われた山田顕義の境遇等々を身近に見ていました。

それ故に、「広島出身である自分は、独立独歩の道を往くのだ」と心に期していたのかも知れません。
 
明治32年(1899)、荒川五郎氏は郷里の広島へ帰り、中国新聞社の主筆となります。その後、次第に地元で名声を築いていきます。
 
当時の中国新聞社は、広島藩の執政だった辻将曹が維新後に設立した、士族授産団体「同進社」とも関係がありました。おそらく、荒川五郎氏には、辻将曹や船越衛等の旧広島藩士族たちの後押しがあったと思われます。
 
そして、明治37年(1904)に広島選挙区で初当選を果たして以来、昭和12年までの30年間にわたり(第9~15、17~19回の総選挙で9期当選)、実直に衆議院議員を勤めあげます。

荒川五郎氏は、まるで古代ローマの「護民官(ごみんかん:英 tribuneトリビューン)」の如く、「市民を護る」ために精力的に活動しました。
 
議会では憲政会(野党)に所属し、薩長の藩閥政治に反対する「普通選挙」の実現に一貫して尽力します。
 
それまでは、高額納税者の成年男子にしか選挙権が認められていませんでした。折しも「大正デモクラシー」の時代が到来し、「普通選挙」を求める国民の声が轟々と湧き上がっていました。

衆議院議員 荒川五郎氏(出典:日大公式HPより)

彼の気骨を表す興味深いエピソードを紹介しましょう。
 
大正12年(1922)2月。いわゆる「第二次護憲運動」のさなかのこと。
折しも、野党である憲政会・国民党・無所属団らが共同提出した「統一普通選挙法案」が衆議院に上程されましたが、討論中に傍聴席から議場へ「生きた蛇」が投げ込まれるという議事妨害事件が起こります。
 
その日の夜、「普選選挙」を要求する数万人の大群衆が、警官隊と衝突するという騒ぎに発展します。結局、この法案は否決されてしまいました。
 
このような情勢下、ある日、荒川五郎氏は中国服を着て中国人に変装し、衆議院に突如現れます。憲政会の控室に入るや否や、彼はこう発言しました。
 
「日本は(世界の)三大強国の一ツであります。支那(シナ:中国のこと)に後れて世界に台頭した日本は、支那を置去りにして発展しました。うらやましくてたまりません……」
 
そして、こう続けました。
 
「しかし、その日本が、国民を土台とする政治の本旨を忘れて、『普通選挙』を拒んでいます。世界の思潮を知らぬのも甚だしい! 日本政府は、まことにペケ “×” であります! 」
 
これを聞いていた周囲の人々は、彼の正体が荒川氏だと気づいていました。
荒川氏は、なおも「議場は、西洋服がよいのなら、東洋服のこの姿でもよいはず」と言い張って、衆議院の議場に入ろうとしましたが、憲政会の幹事に制止されてしまい、実現しなかったとのことです。このことは新聞でも大きく報道され話題となりました。
 
荒川五郎氏は、「世界や東洋の隣国から、日本がどのように見られているかを考えてもみよ!」と訴えるために、あえてこのような挙に出たのでしょう。
 
普通選挙法が成立したのは、それから3年後の大正14年(1925)のことでした。しかし同年、あの悪名高い「治安維持法」も成立していたのでした。

大広島の創造!

荒川五郎氏、学歴社会を批判する

荒川五郎氏は、昭和5年(1930)に、郷里広島の将来の街づくりについて提言する「大廣島之創造(だいひろしまのそうぞう)」という著作を出版しています。
 
従来から教育改革にも熱心であった荒川氏は、この著作の中で以下のように述べています。

人を採用する時、
英国人は「君、品性はどうであるか」
独国人は「君は何の学を研究したか」
仏国人は「君はどこの学校を出たか」
米国人は「君は何がよく出来るか」
と試すのが一般的である。而して、日本は仏国と同じく、「学校」を重く見過ぎる弊がある。

(出典:「大廣島之創造」 P249より)

薩長による藩閥政治に反対していた彼は、東京帝国大学を頂点とする「官学出身者」ばかりが優遇されるという、学歴偏重の社会にも厳しい目を向けていたのでしょう。
 
彼の教育に対する信念は、「学校とは単に学力をつけるための場ではなく、人格の陶冶や、自主独立の気概を持つ人間を育てる場」であるというものでした。

荒川五郎氏、「来よい・住みよい・気持ちのよい広島」を提唱する

また、荒川五郎氏は、「大広島之創造」のなかで、広島の発展のためには「人を招致する事」が大前提であるという考えを述べています。
 
現在の広島県が抱える「人口の転出超過 ワースト1位」という問題を約100年も前に予言していたかのような論説ではありませんか。
 
以下に「大広島之創造」の中の一節を抜粋してみましょう。

広島の内容を充実して、実質を備えた大広島に作りあげるには如何にすべきか。(中略)それには先ず大いに人を招致し、吸収する手段を講ずることが第一である。

広島に人を招来するには、広島を来よい、住みよい、気持ちのよい場所とせねばならぬ。幸いに広島は気候も良く、風も穏やかで非常に健康地であり、(中略)その実際を広く内外の人にも知らせ、同時に諸般の設備運用を講じなければならぬ。

四方より、来よいように多くの人を招致し集中せしむるためには、道路や鉄道の築成、および港湾の修築、航海の改善等、これ等は非常な多費を要する事業であるが、(中略)其の促進方を運動し尽力せねばならぬ。

住みよいようにするには、第一に市街を整理し、交通を便利にし、河流を修理清潔にし、家屋や街路の整備、水道其の他の衛生や消防の事などを始めとして、種々の大切な仕事がある。

又、気持ちのよいところとするには、第一市民一般の注意が大切で、(中略)他来人も旧知人も同様に親切に、住居や事業も出来るだけ世話をもして、誰でも気持ちよく腰を落ち着かすように注意せねばならぬ。

(出典:「大広島之創造」第六章 先ず何から手を着くべきかP27 より)

このように、中国地方の中枢都市として広島が発展するための具体的な方策を提言していたのでした。
 
荒川五郎氏は、昭和19年(1944)8月3日、79歳でこの世を去りました。翌年の8月6日に広島が見舞われる惨劇を見ることはありませんでした。

晩年の荒川五郎氏(出典:Wikipediaより)

荒川五郎氏、「海国精神の涵養(かんよう)」を提唱する!

「大広島之創造」の内容は、大まかに言うと以下の内容になっています。
 
1 広島の現状分析(地理的、経済的、文化的な面について)
2 「広島の保護」について(太田川の治水や水害を防ぐための治山事業
3 広島の交通の振興について(鉄道や港湾)
4 広島の教育の振興について(教育の合理化や青年の教育、市民文化)
5「海国精神の涵養(かんよう)」による広島の振興策
6 厳島(宮島)の振興策について(瀬戸内海国立公園設定の提唱)
7 広島の食料、商業、文化、酒造などについて
8 広島に「国際飛行場」を設置することについて
 
荒川五郎氏は、著作の後半で「海国精神の涵養」という考えについて、多くの字数を割いて繰り返し持論を展開しています。
 
彼の考えは、「日本は世界に開かれた国になるべきで、広島がその先頭に立って、海外進出の起点となる」というものでした。
 
広島県は、アメリカやブラジルに数多くの移民を送り出した県でもあり、また「昭和初期」という時代の空気を反映したものではありますが、日本にとって「海外との結びつき」が大切なのは、今でも変わりはありません。
 
彼は、海洋、船舶、航海、貿易、海産物、漁業のことから海外諸国の諸事情等をも含んだ総合的な研究を行う、「広島海国大学」の設置構想も披露しています。
 
また、最後の章では「広島に国際飛行場を建設する」ことも提唱しています。瀬戸内海に面しており、中国大陸にも比較的近い広島は、飛行艇を使った「水陸両用の国際飛行場」の拠点になり得るという主張を彼は展開したのでした。
 
それは、当時、軍港である呉を抱えていた広島ならではの発想だったのではないでしょうか。
当時の航空輸送の発展や、第一次世界大戦後の「海軍軍縮」の流れの中で、これからは艦船だけではなく「航空力」が必要だという当時の海軍の動きも、荒川氏は見ていたはずです。
 
事実、航空母艦(空母)の建設や、巨大な飛行艇の開発などの企画を海軍は打ち出し、昭和16年(1941)には、世界最長の航続距離、約7000㎞(B29の1.3倍)を誇る大型の飛行艇「二式大艇(H8K)」を完成させたのでした。

川西航空機が昭和16年(1941)に開発した「二式大艇」(出典:Wikipediaより)

荒川五郎氏、「広島の保護」を提唱する!

荒川五郎氏の「大廣島之創造」は、戦後になって忘れ去られてしまった訳ではありませんでした。特に、彼の「広島市民を護ることが最優先」という主張は、広島の人々の心の中に残り続けました。

太田川を始めとする河川の整備という「治水」の問題は、繰り返し水害に見舞われてきた広島では、避けて通れない懸案の課題であったからです。

尚、広島の水害の歴史については、以下の記事でも紹介していますので、参考にしてください。

太田川改修工事(太田川放水路を建設して、広島市の中心部を流れる太田川の流路を郊外へと切り替える試み)が、昭和9年(1934)年に着工されていました。
しかし、昭和12年に日中戦争が始まったため予算が削減され、中断されたままになっていました。

戦後になって、原爆の被害からの復興のため「広島平和記念都市建設法」の制定へ向けて機運が高まります。それと歩調を合わせ、荒川五郎氏の提唱した「広島市民を護ることが最優先」という考えに基づき、治水事業も再び始動し始めました。
 
太田川放水路は、昭和42年(1967)に、その全ての工事が完成します。
荒川五郎氏が亡くなって、すでに20年以上の月日が流れていましたが、ようやく広島の「治水事業」に画期的な進展がもたらされたのです。

写真右端の一直線の川が完成した「太田川放水路」太田川の流路を郊外に切り替えている(出典:Wikipediaより)
太田川放水路を安佐南区新庄橋から下流を望む(出典:Wikipediaより)

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現代の日本では、少子高齢化による人口減少や地方の過疎化が深刻な課題となっています。その観点からも、荒川五郎氏の言う「来よい、住みよい、気持ちのよい」街づくりという発想は、今も色褪せてはいないと思います。

「大廣島之創造」広島出身の衆議院議員荒川五郎の著書。大広島の実現に向けた構想案を提起したもの。「広島の保護」が最優先として、治水治山事業の重要性などが訴えられている。(出典:広島市公式HPより)

尚、表紙のイラストは Atelier hanami|note さんのものをお借りしました。誠に有難うございました。

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