正垣文
2020年春にオープンしたカフェ、「お茶と食事 余珀」の記録。「私的遣欧日記」の続編。
「遣欧茶節団」として渡欧した旅行記。2019年10月下旬〜11月初旬、パリ4泊・コペンハーゲン6泊。お茶とご縁を紡ぐ旅の記録。
初日の出を見た。刻々と変わる空。一際輝く光。徐々に育つ太陽の兆し。富士山の頭もくっきり見えた。新年に相応しい清々しい空だった。 2023年を漢字一文字で表すならば「喪」という字が良いだろう。夫も、強いと思っていた自分も、先日祖母も喪った。 人に励まされるのは嫌いだった。励まされるのは弱い人間で、自分は励ます側の人間だと思っていた。誰かに心配されると「大丈夫だ」と言い、「元気だ」と笑い、涙が出そうな時は腿をつねって誤魔化した。体じゅうの気合いを集めて喪主もちゃんとやり遂げた
研究科を終えた。毎日いろいろなことが起こる。大変な時こそ学びや気づきは大きい。そして大変な時はずっとは続かない。自然を見ていればわかる。必ず朝は来る。 料理教室に通った一年は嵐のようだった。夫を亡くした。死にたいと思うレベルの悲しみをはじめて味わった。夫婦で始めたお店を一人で営むことになった。いろいろなものが壊れた。破壊と再生の一年。いまだ再生の途中である。 「何もない人なんていない」。米澤先生はよくそうおっしゃる。私だけが特別なわけではない。いつも笑顔のあの人もきっと何
夫がいない世界を5ヶ月生きた。夫は生前、もしも自分が死ぬのだとしたら心残りは文さんだ、と言った。あとは家族、それ以外はどうでもいい、と言った。私もそうだ。夫が生きてさえいてくれれば後はどうでも良かった。どうでもいいことばかりが残った世界で、それでも5ヶ月生きてきた。 夫を失ったことに恨みも後悔もない。ただ、仕方がないと思う。そして時々、つまらないと思う。夫がいなくともみんながいる。それなりに楽しいこともある。けれど、みんなは克也さんではないとも思う。どうでもいいと思うたび、
上級の受講中に夫を亡くした。皆勤だった料理教室を一ヶ月休んだ。葬儀や事務手続きが落ち着くまでの間、ずっと義母が一緒にいてくれた。 連絡やら申請やらで、私がスマホにかかりきりの最中、義母がご飯を三食作ってくれた。 悲しみに沈む義母に米澤先生の料理の本を手渡した。他にも図書館で料理の本を色々借りてきて、二人で読んだ。どんなに悲しくても料理の本は読めた。いたずらに心を乱さず、余計な感情を引き起こさず、穏やかに過ごせた。 連絡と作業の嵐を抜けた頃、久しぶりに台所に立った。自然食
先日、納骨をした。法要の後お墓に向かい、お墓でもお経をあげた。義父と義弟が力を合わせて墓石を動かした。義祖父のものか義祖母のものか、石と石の隙間から分解されずに残った骨が見えた。骨の近くに紙のようなものが見えた。朽ち果てる前のその紙には文字が一つ書いてあった。 それは「文」という字だった。文字の大きさは3センチか4センチ四方くらいだろうか。朽ちて小さくなった紙に対してだいぶ大きく一文字だけ「文」とはっきり書かれていた。何だこれは。考える間もなく夫を「文」の近くにそっと横たえ
「結婚指輪をしないのか」と友人に聞かれた。「きっと守ってくれるからつけたら良いのではないか」と。言われてみると葬儀につけて以来、指輪をすることはなかった。 思いつかなかったという方が正確かもしれない。いろいろな手続きで「世帯主」に丸をつけ「配偶者なし」に丸をつけ「同居する家族なし」の欄に丸をつけてきた。寡婦年金の受給資格もある。夫はいなくて自分は一人だと何度も思い知らされてきた。 そもそも我々は結婚指輪を常日頃つけていなかった。会社員時代は毎日していたけれど、仕事が飲食に
久しぶりに音楽を聴いた。聴きたいと思って曲を選んで純粋に音を楽しんだのは何ヶ月ぶりだろう。グールドのゴルトベルグ変奏曲。夫が好きな曲だった。 音楽の力は強い。そのつもりがなくても記憶や感情が引き起こされる。夫と入院先で一緒に聴いた曲をその2週間後に一人で聴いた。苦しくて息が止まるかと思った。以来、基本的に無音で過ごしてきた。余珀のイベントで音楽が必要な場合はなるべく心に余計な波風を立てない曲を選んだ。 5月に清水寺で「音にラベルを付けない」ことを学んだ。雨の舞台であの曲を
「ダンナの骨壺」というエッセイを読んだ。著者は女優高峰秀子。黒田辰秋氏に骨入れを注文したそうだ。これを執筆した当時、高峰さんは54歳。その後ご主人より6年早く86歳で亡くなったのだから羨ましい。私は今「ダンナの骨壺」をどうするか悩んでいる。 火葬の日、夫の骨を少し分けてもらった。大事な息子を亡くしたのにもかかわらず、義父母は嫁の私を最優先して好きな骨を選ばせてくれた。迷わず喉仏を希望した。長くきれいに伸びた首から鎖骨にかけたラインがお気に入りだったから。すっと通った鼻筋も好
夫が旅立って3週間が経った。長かったのか短かったのかもうよく分からない。眠れているのか眠れていないのかもよく分からない。 毎晩、夢を見る。これならば間に合うのではないか、と必死に夫を救う方法を探している。目覚めるともう探さなくて良いことが分かる。毎日その繰り返し。 「仲が良すぎるのも考えものだ。死ぬ時は一人なのだから」。数年前に、母にそう言われた。母の言うことはいつも正しい。 付き合って21年。結婚して13年半。7年前に会社を辞めてからはほぼ毎日24時間一緒にいた。離れ
余珀お披露目の日から丸2年経った3月22日、冷たい雨が降るなかお墓参りをした。母方の大叔父夫妻と母の従姉妹が近くのお寺に眠っているのだ。 登戸に余珀の物件を見つけた当初、この街には縁もゆかりもないと思っていた。母が大変お世話になったという叔父さん達が昔近くに住んでいたなんて、美容師さんと物件のオーナーさんとの繋がりをはじめ、やはりこの場所には何らかの導きがあったと感じざるを得ない。どうにか2年お店を回せたのも、知らないところで知らない何かが守ってくれていたのかもしれない。
昨日行われた社中の初釜で、2022年の抱負を先生に聞かれメンバー全員がその場で発表した。私は「開花」と答えた。 2021年後半のテーマは「自愛」だった。発端は昨年秋のお稽古でのこと。私の練った濃茶を飲んだ先生が「酸っぱい」とおっしゃった。濃茶が酸っぱいとはどういうことか。うまく練れたつもりだっただけに心外だった。 先生曰く、お茶にはその人の全てが出ると。思い返すとその日の私はかなり不機嫌な気持ちで稽古に参加していた。どんなにきれいなお点前でどんなにきれいに練られていたとし
前回の更新が5月31日。それから5ヵ月も経ってしまった。もはや日記ではない。書こう書こうと思いつつ、記録できずにここまできてしまった。いったい今まで何をしていたのだろう。 夏に体調を崩したのもいけなかった。暑いなか外に出たのが原因か、貧血を起こしてお店を何日か休んでしまった。久々の体調不良で体力が戻るまで時間がかかった。 その反省を踏まえて、仕込みを始める前に、朝、筋トレをするようになった。たった4分だけだが、多少なりとも良い影響を体に与えている気がする。お店を続ける
余珀を始めて一年が経った。昨年の3月22日にお披露目としてこの場を開いた。4月15日、テイクアウト営業を始めた。6月2日、イートインを始めた。 「この日が開店日」とはっきり決めることが難しいが、次の6月2日でイートイン含めて丸々一年間このお店を回したことになる。 5年前の春まで我々はそれぞれ別々の会社に勤める会社員だった。結婚して一緒に暮らす前までは、何時まで仕事をしていても割と平気だった。一緒に暮らし始めてからは、始業時間の2時間くらい前に出社して、誰もいないオフィス
「お手洗いのお香は何ですか」。お客さまから帰り際に聞かれた。「建長寺の巨福です」と答えた。開店前に焚くお香はお寺で求めたものがほとんどである。旅先でお寺や神社に立ち寄り、お線香をお土産にするのが我々の定番なのだ。 聞くとそのお客さまも、昔はお寺のお香ばかり買っていたという。思わず意気投合し、さらに話を伺うと京都の東寺のお香が一番好きだと教えてくださった。「またお手洗いの香りを嗅ぎにきます」、そう言ってお店を後にされた。 建長寺、報恩寺、高尾山、天河大辨財天社。移りゆく香り
新しい年。玄関のきびがら細工はネズミから牛に変わった。次にまたネズミを飾れるのは11年後。その頃我々がどうなっているのか、見当もつかない。 このきびがら細工は西荻時代からの常連のお客さまがくださったものだ。昨年11月、ネズミに引き続き「牛が届いた」とわざわざ登戸まで渡しに来てくださった。 昨年末、ご近所だったお客さまが登戸を離れた。引越が急に決まったという。テイクアウト営業の頃から何度もいらしてくださった方で、もう同じ街にいないと思うととても寂しい。 その一方、昨年末に
学生時代の友人が来てくれた。彼女は我々を「あやっぺ」と「かっつん」と呼ぶ。彼女がいなければ私と夫は出会っておらず、当然余珀も生まれていない。年内最後の通常営業日に相応しい特別なお客さまだった。 その夜、彼女は私の家にやってきた。彼女お勧めのラーメンズのビデオを一緒に見ることになっていた。深夜に見終わると、明日からあるゼミが始まることを彼女は教えてくれた。 それは就職活動に向けた作文教室だった。元新聞記者の先生が文章を見てくれるのだという。深く考えもせず行くことに決