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寡婦日記②

久しぶりに音楽を聴いた。聴きたいと思って曲を選んで純粋に音を楽しんだのは何ヶ月ぶりだろう。グールドのゴルトベルグ変奏曲。夫が好きな曲だった。

音楽の力は強い。そのつもりがなくても記憶や感情が引き起こされる。夫と入院先で一緒に聴いた曲をその2週間後に一人で聴いた。苦しくて息が止まるかと思った。以来、基本的に無音で過ごしてきた。余珀のイベントで音楽が必要な場合はなるべく心に余計な波風を立てない曲を選んだ。

5月に清水寺で「音にラベルを付けない」ことを学んだ。雨の舞台であの曲を穏やかに聴いた。もう苦しくなかった。音だけではなく、すべてのものに「悲しみのラベルを付けない」こと。ありのまま観ること。日々の訓練でいろいろなことが平気になってきた。

葬儀から一ヵ月ほど経った頃、母と近くのお寺にお墓参りに行った。昨年夫とお参りした母方の親族のお墓。手を合わせた後、周りの墓石をぐるりと見渡した。私と同じ悲しみを感じた人々がこれだけの数いるということに圧倒された。何代も何代も積み重なったとてつもない量の愛別離苦が視覚化されたようだった。昔々から人々は失い、悲しみ、それでも生きてきたのだ。

失うという経験をいただいた意味を考える。その経験をいただいた自分はどう生きるべきか考える。昨年は咲かなかった庭のアガパンサスの蕾が伸びてきた。だめになったように見えても止まっているように見えても、命はつながり続いている。世界は可能性は満ちている。失ったもの。残ったもの。私は私を生き切ろう。

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正垣文
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