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寡婦日記④

先日、納骨をした。法要の後お墓に向かい、お墓でもお経をあげた。義父と義弟が力を合わせて墓石を動かした。義祖父のものか義祖母のものか、石と石の隙間から分解されずに残った骨が見えた。骨の近くに紙のようなものが見えた。朽ち果てる前のその紙には文字が一つ書いてあった。

それは「文」という字だった。文字の大きさは3センチか4センチ四方くらいだろうか。朽ちて小さくなった紙に対してだいぶ大きく一文字だけ「文」とはっきり書かれていた。何だこれは。考える間もなく夫を「文」の近くにそっと横たえ、義父たちは墓石を元に戻した。

「お経本か何かありがたい紙だったのではないか」。義父母に聞いてもあの紙の正体ははっきり分からなかった。あんなに分解されて小さくなった紙になぜあの一文字だけが残ったのか。よりによってなぜ「文」なのか。考えても分からない。

意外と私も早くあそこに入るのかもしれない。「文」がお墓に納まっているのを見てそんな考えがふと浮かんだ。それはそれで仕方がない。私にはもう失うものなどない。前より死も怖くない気もする。たぶんその時が来たら夫が迎えに来てくれる。そんな変な自信もある。

一方で、夫とともに私も一度死んだのだとも思う。夫とともに生き、夫のために生き、夫が好きに生きられるよう身を捧げ、それが生きる喜びであり、それが生きる全てだった私は、夫とともに死に、一緒にお墓に入ったのだろう。

新しく生まれ変わった私は以前とどれだけ違うだろうか。夫に頼りっぱなしだった私からどれだけ成長できただろうか。時を経て訓練を重ねて心も考え方も日々少しずつ変わっている。それでも今はまだ夫に迎えに来てもらうわけにはいかないと思う。新しい私は私のために生きるのだ。

今、自分を壮大な織物のように感じる。ご先祖さま、両親、妹弟、友人たち、岩手山や中津川、「すきとほつたほんたうのたべもの」、育った街や時代やあの日すれ違った名前も知らない人たちさえも、縦の糸になり、横の糸になり、全部私の命として編まれている。人生の半分をともに過ごした夫の糸はだいぶ広く深く私に編み込まれているはずだ。

最近、生命体としての義務について気づく機会があった。生命が38億年続いてきたのは「より良く変わり続けること」ができたから。自分の可能性を追求することは生命としての義務であり生きる証なのだ。

もっとたくさん糸を見つけよう。心震える糸に出会おう。好きな色に染めたっていい。今までやらなかった模様にも挑戦しよう。より豊かにより鮮やかに。もっと大きくもっと美しく。私の命を色とりどりに織り上げて次の世代へプレゼントしよう。

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正垣文
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