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海部公子という生き方

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洋画家、陶芸家であり、「ゴッホの手紙」などの翻訳でも知られる硲伊之助。その弟子であり、硲の精神を受け継ぐ海部公子さんの人生をたどります。
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#私設美術館

#17 海部公子という生き方

#17 海部公子という生き方

後を託すと遺言書に残した

 
 最後の2、3年は(心臓性ぜんそくで)とても苦しい時が続きました。だいたい毎年秋に一水会の公募展があるのですが、その審査をして、いったん帰ってから展覧会をしていた。だから年に二回は東京に車で行っていました。それ以外にもよく行っていたし、晩年は私たち二人が一緒に車で旅をしていましたね。(紘一さん)だから最晩年のころ、ちょっと具合悪かったんで、先生を置いて二人でゴッホ展

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#16 海部公子という生き方

#16 海部公子という生き方

「家を手放して先生の作品に変えたい」

 その頃の生活は作ることが生活の中心でした。清水喜久男さん(石川県加賀市大聖寺山田町)が窯から上がった物を持って行くと買い取ってくれました。清水さんはある日訪ねてみえて、「作品がほしい」と。当時は中日新聞が熱心にここのことを記事にしてくれていたので、それを読んで興味を持ってくれたようです。大同工業のサラリーマンで、退職後することがなくて退屈してたらしいの。そ

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#15 海部公子という生き方

#15 海部公子という生き方

ここでずっと一緒にやろう

 ここ(石川県加賀市吸坂町)での暮らしを語る上で、HさんとYさんという二人の女性の存在は欠かせません。ここでずっと一緒にやろうと思っていたんだもの。彼女たちのことは私の歴史の中で重いことなのよね。どうして彼女たちとやっていこうと思ったのか、自分でも不思議なんだけど。

 Hさんは軽井沢出身で、父親が硲先生と深い関係がありました。父親は木こりの生活でした。先生が描いた父親

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#13 海部公子という生き方

#13 海部公子という生き方

 1964~65年のヨーロッパ研修旅行。今回はパリでピカソの画商と会った話、過去にはその画商が取り持つ縁で1958年の国内初ゴッホ展が開催された経緯など、知られざるエピソードについてつづります。

 ピカソの画商「ほしければ一枚あげる」 1964年の暮れ近くに、ピカソの画商のカンネベレールさん、ユダヤ人だと思うけど、パリにビルを持っていました。先生がカンネベレールさんを知っていてビルを訪ねたんです

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#11 海部公子という生き方

#11 海部公子という生き方

 東京から石川県加賀市吸坂町へ拠点を移し、本格的に色絵磁器制作を始めた硲伊之助と海部さん。1964(昭和39)~65年には朝日新聞社のはからいで、ヨーロッパ諸国を巡る機会に恵まれました。ヨーロッパ近代絵画の一級品を国内に招致し、展覧会を開くための調査が目的でした。その旅路で海部さんは超一流の美術品を目の当たりにし、その後の作品づくりに大きな影響を受けることになります。まずはフランスから始まった旅の

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#10 海部公子という生き方

#10 海部公子という生き方

 石川県加賀市山中温泉の山奥で、ダムに沈む寸前の民家に出会った硲伊之助と海部さん。この家を同じ加賀市内の吸坂(すいさか)町に移築することになるのですが、吸坂町は古九谷と同じ江戸時代初期に「吸坂焼」と呼ばれる焼き物が作られた場所でした。二人は運命的にこの地と出会い、窯を構える覚悟を決めます。多くの職人の助けを借り、九谷焼に絵画表現を模索する日々が始まりました。

経済的に苦しい生活を覚悟して 東京か

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#8 海部公子という生き方

#8 海部公子という生き方

 硲伊之助は1921~29年、33~35年と戦前、2度にわたりヨーロッパに滞在し、芸術の都パリを中心に当時最先端の絵画表現の潮流を学び、吸収します。中でもアンリ・マティスと運命的に出会い、生涯の師と慕い、交流を深めました。戦後はそのマティス展、さらにはピカソ展、ブラック展、そしてゴッホ展の国内初開催に尽力。ヨーロッパの近代絵画が日本の国民に広く認識される原動力となりました。今回は海部さんの目から見

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#5 海部公子という生き方

#5 海部公子という生き方

 若干16歳にして渋谷駅そばに開いたおでん屋を通じて、海部さんは生涯の師となる硲伊之助と出会います。三鷹にある硲の自宅兼アトリエに通うにつれ画家の仕事に関心を深め、また硲の人間性に惹かれていきます。そもそも海部さんと絵のつながりはどこから始まったのでしょうか。小学生のころの思い出にさかのぼります。

おでん屋をきっかけに、絵の人生が始まった 五里霧中でおでん屋をやっていた時に出会ったお客さんで、丹

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#4 海部公子という生き方

#4 海部公子という生き方

 戦後間もない渋谷駅周辺は喧噪と活気に満ちていました。誰もが生きるのに必死な時代でした。「大和田胡堂」と呼ばれる飲食店街で、おでん屋を開いた海部さん。混沌とした状況下でも、持ち前の明るさと強さではつらつと店を切り盛りしました。その大和田胡堂での思い出をもう少し振り返ってもらいます。

おでん屋の向かいにあった外食券食堂 叔父がおでん屋を始めた私を見つけ出して「お前なんでこんなことやらなきゃいけない

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#3 海部公子という生き方

#3 海部公子という生き方

16歳で親から自立。友達とおでん屋を始めた 中野の上高田で母が薬局を開いて2年くらい経ったころでしょうか、中目黒、さらに学芸大学の近くに引っ越しました。そして私は中学校を卒業して働き始めました。神田の小さな商事会社の事務員でした。新聞広告で自分で見つけたんです。目黒高校の定時制に通いながらですが、結局、学校には10カ月しか通っていません。私の学歴はそこ止まりです。

 ところが働き始めた会社が半年

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#2 海部公子という生き方

#2 海部公子という生き方

 横浜で生まれた海部公子さんは終戦後まもなく、東京に住まいを移します。父親の商売や母親の薬局を手伝い、一家の食事づくりを一手に引き受けながら十代の多感な時期を過ごします。働き手としての自覚、家族の役に立っているという自負が、やがて自立心へとつながっていきます。

自営のパチンコ屋を手伝った 出征した父は外地に行くことなく、胃に穴が開いて送還されてきました。その後回復して自動車会社を興して、最後は友

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#1 海部公子という生き方

#1 海部公子という生き方

海部公子(あまべ・きみこ)さん。1939(昭和14)年に横浜で生まれ、終戦後、東京でおでん屋を切り盛りしていた16歳ころに、洋画家の硲伊之助(はざま・いのすけ)と出会いました。23歳で硲とともに石川県加賀市吸坂町に移り、色絵磁器の表現を追求する日々が始まります。まずは横浜での幼少のころからたどります。

 神道とクリスチャンの家に生まれて

 1939(昭和14)年9月9日、母親の実家がある横浜で

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#0 海部公子という生き方~プロローグ~

#0 海部公子という生き方~プロローグ~

 毎日たくさんの新聞記事を書いているのに、ちょっとどきどきしながらこの記事を書いています。

 記者になって24年がたちました。縁あって、3年前から自分の生まれ故郷であり、自宅がある石川県加賀市で仕事をしています。

 今回noteで書いていこうと思う「硲伊之助美術館」に初めて出掛けたのは2018年の初夏のことでした。加賀市で生まれ育ちながら足を運ぶのは初めてのこと。ただ加賀市に配属になる前に、尊

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