#15 海部公子という生き方
ここでずっと一緒にやろう
ここ(石川県加賀市吸坂町)での暮らしを語る上で、HさんとYさんという二人の女性の存在は欠かせません。ここでずっと一緒にやろうと思っていたんだもの。彼女たちのことは私の歴史の中で重いことなのよね。どうして彼女たちとやっていこうと思ったのか、自分でも不思議なんだけど。
Hさんは軽井沢出身で、父親が硲先生と深い関係がありました。父親は木こりの生活でした。先生が描いた父親の肖像が石川県立美術館に入っています。いい絵ですよ。私も何度か軽井沢の家にうかがったことがあります。お風呂を薪で焚いていて、彼が造ったドラム缶風の風呂に入れてもらったこともありました。屋根のすき間から月を眺められるようなね。そんな家で育った彼女が私はとっても好きで。彼女の方もうちの生活に関心を持ったようです。絵で生活するのも面白いと思ったかどうかは分かりませんが、何かいいことありそうだと思ったんじゃないかな。
先生の東京の本家でお手伝いさんを探しているというので、それで彼女は上京しました。でもそれだけじゃもったいないというので、先生が日中友好協会の理事長をしていた中島健蔵さんに引き合わせて、中国語教室に行くようになったの。中国語くらいできた方が良いって。そこで紘一さんと出会ったのよね。
一方、Yさんは私が新橋で「ぶれ」っていうお店をやってる時にふらっと入ってきて「手伝わせて」って。仲良くなって、ここの話をしたら興味を持って、留守番をしてもらったこともありました。彼女はお見合いして、神田大民さん(後にブラジルの邦字紙「日伯毎日新聞」の元編集長、2012年に74歳で死去)という人と婚約したの。神田さんは秋田出身のとてもまじめな人でジャーナリスト志望でね。自分の夢はアマゾン川を船で上ったり下りたりして物資を運ぶ仕事をして、そういう仕事を通じてジャーナリスティックな仕事をしたいと言っていました。
二人がブラジルに移住するというので、横浜の波止場まで見送りに行ったの。そしたら途中で道に迷ったりなんかしたら遅れちゃって、船が先に出ちゃったの。船は出て行く、私は残るで情けなかった。二人は結局、向こうで離婚しちゃって、Yさんは帰りの船で海に飛び込もうと思ったとか、波瀾万丈の人生で。私も責任感じちゃって。だからその後、彼女は一緒に6年くらいここで暮らしたの。絵の具をすったり、料理や掃除をしたりと、先生の助手として力になってくれました。でも私たちがいないところで猫をいじめてたっていう話を聞いて、だんだん警戒するようになった。彼女はずっとここで生きていくつもりだったみたい。だけどその中身が問題だよね。結局、退職金を渡して、親しくしていた東京の和菓子やに引き受けてもらいました。
私は男性よりもずっとずっと女性の方が信頼できるというか、安心感があったよね。だから当時は彼女たちがずっとうちで暮らせるように何とかしたいという気持ちでした。その一緒に暮らした何年間かは、一緒に石を砕いたり、型をきれいにしたりと、朝起きてから夜寝るまで、生地作りの苦心を知ろうとする生活だった。そういう意味ではすごく充実していて、面白くもありました。
(※中国語教室で出会った紘一さんとHさんは1971年10月に結婚し、紘一さんは九谷吸坂窯に入門。当時は硲伊之助、海部さん、紘一さん、Hさん、Yさんが共同生活を送っていた。その後72年11月に離婚。そして74年に海部さんと紘一さんは結婚し、硲伊之助の夫婦養子となった)
北陸銀行頭取の福田貫太郎さんが媒酌人になって、富山のホテルで養子縁組の披露宴をしたんです。硲伊之助の後継者としてみんなに発表したわけです。十和田湖に写生旅行に行った帰りに富山に立ち寄り、福田さんに今度結婚することになったと話したら、「じゃあ自分がやってるこのホテルで式を挙げたらいい」と話が進んじゃって。本当は地元でやりたかったのですが。富山県知事だった吉田実さんとか、40人くらいが集まってね。
先生は若いころに結婚したフランス人の妻を戸籍から抜くことができなくて、私がここの戸主になって借金の借り主になっていました。だから必然的に私の名前を使わざるを得なくて、紘一さんが長男なのに柳井家から抜けて私の戸籍に入ってくれたの。(※硲伊之助は前妻と離婚が成立していたが、東京大空襲で区役所が焼け、その後、前妻と結婚したままの状態で戸籍が復活した。前妻に除籍を申し入れたが、拒まれた)。
跡継ぎができたことを先生は喜んだ
硲先生の跡継ぎとして、自分の意思で選び取って、先生が在世中から硲紘一を名乗った。先生は喜んでましたね、名前だけでもちゃんと受け継いでくれた。だから硲紘一は硲伊之助の後継者として名跡を継いでるし、実際に資格があると私は認めています。紘一さんの家族は全く反対しなかった。両親もすごくいい人たちで。お父さんは教育者で、お母さんは控えめで、ここへ遊びに来ても紘一さんの袖のボタンが取れていようが、破けていようが、知らん顔だよ。普通なら嫁がいるのにこんなの着せてとか手出す母親が多いと思うんだけど、私にすごい親切だった。亡くなるまで親愛の情を示してくれて。私の母親とおんなじ名前なの。芳枝っていう。同年代だし。お父さんと私の母親が丑年でね。お母さんは平壌生まれなの、18歳まで。
(HさんやYさんとの共同生活について)時代が大きく入れ替わって、民主主義や人権が叫ばれて、徒弟制度があまり認められない世の中になっていく中で、今を切り抜くためにどう生きたら良いかっていうのはいつも課題だったけれど。でも女の人の揺れ動く気持ちっていうのも、今振り返れば分かるような気がするしね。当時は何よ、自分がやるやるって言っておきながら、なんで自分の言葉の責任持たないの?って言いたくなっちゃったりして。でもそれほどあんまり深く考えて、深刻に落ち込んだわけじゃないんだけど、とにかく毎日ご飯食べさせなきゃいけないし、仕事もしないといけないし。今だったらこうじゃない、こうしなきゃだめなんじゃないと助言したり、経済的にバックアップすることで収まったかもしれない。こっちもわけわかんないで揺れてるところがあるから、お互いさまで迷惑かけあったんじゃないかなって思います。(続く)
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