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#13 海部公子という生き方

 1964~65年のヨーロッパ研修旅行。今回はパリでピカソの画商と会った話、過去にはその画商が取り持つ縁で1958年の国内初ゴッホ展が開催された経緯など、知られざるエピソードについてつづります。

 ピカソの画商「ほしければ一枚あげる」

 1964年の暮れ近くに、ピカソの画商のカンネベレールさん、ユダヤ人だと思うけど、パリにビルを持っていました。先生がカンネベレールさんを知っていてビルを訪ねたんです。どの階にもピカソの作品が裸や額縁に入って並べられていました。小さい絵がいっぱい並んでいて、目を見張りました。私はピカソの絵はなぜか感覚的に合わなくて。あまりにもたくさんあるのにびっくりしていたら、カンネベレールさんが「ほしければ一枚あげる」って言ったの。私はいりませんと言ったのよ(笑)。関心が全くなかったのよね。老境の小柄なおじいさんでした。あの時が最初の最後で、おもしろい場面だったと今になって思います。

 ピカソは南仏にマドゥラという窯を持っていて、陶芸もやっていたのよね。硲先生はそこにもよく行ったらしいですよ、そこで撮った写真も随分ありました。硲先生はピカソとお付き合いがあったの。マティスやブラックとも。ブラックは日本の手すき和紙に興味を持っていて、硲先生はそれを随分集めて送ってあげたりしていました。ブラックはそれをキャンバスの形に切り抜いて、手紙にして礼状が来ていました。先生は通算4回ヨーロッパに行っているのですが、最初の渡欧は9年間全く帰国せずに滞在していました。その間にできた交流だと思います。マティスのニースのアトリエにもよく出入りしていたようです。硲先生はオテルレジナという海岸に面したアパルトマンにアトリエを持っていました。原田マハさんの「ジヴェルニーの食卓」という本にピカソとマティスの行き交いを描いた一編があるのですが、それを読んだら硲先生の話をそのまま聞いているような内容だったので、実感があって面白かったです。

8年越しの約束がかなったゴッホ展

 硲先生は1950年にパリに行った時、カンネベレールさんにサンドベルグさんという、オランダのゴッホ家とも交流がある人を紹介してもらったそうです。硲先生がゴッホ展のことでオランダに交渉に行きたいんだけど、つてがなかったのでカンネベレールさんに相談したら、サンドベルグさんを紹介されました。サンドベルグさんとはシャガールの娘さんの家で打ち合わせをしたんだけど、オランダのゴッホ家は絶対に枢軸国には協力しないと言われたそうです。ゴッホの弟の孫かで、ゲシュタポに銃殺された人がいて、日本が枢軸国になってるので、ドイツとの関係で絶対に日本なんかに作品は貸さないと言っていて無理だということでした。だけどゴッホ家を離れた作品があって、それはクレラー・ミュラー美術館にあって、そこの作品なら動かせる可能性があるから、交渉してみたらどうかと助言してくれました。それでクレラー・ミュラー美術館の館長に取り次いでもらい、オランダ政府にもつないでもらって、オランダに行って交渉して「じゃあ、今から8年後に日本でゴッホ展をやります」という約束を取り付けることができました。それを新聞社につないで、向こうは約束通りにちゃんとやってくれたんです。1958年の「フィンセント・ファン・ゴッホ展」(東京国立博物館/京都市立美術館、国内初の大規模なゴッホ展)のことです。主催は読売新聞社。硲先生は絵に対する熱意がすごいから、向こうの人も感応するんだよね。絵以外は純粋無垢な人。私は最初からそこに染まっちゃったんだよね。

 (オランダ側も約束を守ったことがすごいですね)日本が憲法9条が本当に大事だと思うなら、それを前に押し立てていくような生活表現を示し、「あの民族には生きててもらわないと困る」というような人が世界中に増えれば、それが一番の安全保障ではないですか。軍備なんてとんでもないよね。日本は軍備しないで、平和主義を貫いた方が活路だと思いますよ。

 硲先生も自分たちのやっている絵画の仕事を通じて、人間の存在と平和とか戦争の問題にも深いところでつながってくる、という考えに立っていたと思います。新聞は必ず1面から読んで、現実逃避は絶対にしなかった人です。だけど政治的な発言や活動に参加することは非常に慎重に対応するように、それだけは忠告がありました。政治家は命を懸けろ、芸術家は命を大事にして長生きしないと全うできないと言い続けていましたね。

ロンドン・鈴木春信展で押し寄せた感動

 ドイツに行く直前1965年1月初めはロンドンの10日間くらいがありましたが、毎日ブリティッシュギャラリー、ナショナルギャラリーなどと見て回って、一番印象深いのが鈴木春信展ですね。これはすごかった。そのときのパンフレットやカタログがないんです。手に入れたいんですがね。大きな展覧会でした。泣けてきて涙が流れて止まらなくなった。あんまり素晴らしくて。オランダでは古い版画やドイツの銅板画とか、版画の系統でもいろんなものがある。先生は美術館に行くたびに資料室なんかも見せてもらってたんだけど、日本の版画の世界がいかに率直で人間感情にあふれていて、素晴らしい世界だというのを感じさせられた。その集大成のような展覧会でしたね。日本で一度もそういう思いしたことなかったので、考えたら日本は日本の物を全然大事にしてなかったんだよね。特に鈴木春信と歌麿は日本の天才的な絵描きですよ。絵画として成就させた。その伝統を絵画の世界に引き継ぐことはできると思うんです。

 硲先生の多色刷り木版画は1921~29年にヨーロッパにいた9年間に、ニースに住んでるアンリ・ベベルさんという、宝石商だそうですが、この人が日本の版画をすごい数集めていて、その人のところに毎週見に行って、次々と見せてもらっていたらしい。日本じゃ全然、日本の美術を探究する機会のなかった先生が、初めてフランスで見つけて、フランス人たちに受け入れられて、彼らを感動させてる現場に遭遇して、自分もだんだん引き入れられて、びっくりしたらしいですよ。英国のブラングインという絵描きが日本の彫り師と摺師を雇って、学んでたらしいのね。そこへ硲先生がその彫り師と摺師をパリに呼び寄せて、版画を学んだと言っていました。だから「彫りも刷りも、僕は一流の腕前なんだよ」って言ってました。それで創作版画に手を染めるようになった。下絵を自分で描いて、彫りもやって、ばれんを持って一枚一枚刷って仕上げるのに、精魂込めたんですよね。日本版画協会というのを山本鼎(かなえ)や恩地幸四郎らが立ち上げた時に参加しました。だけどだんだんそこに林武や棟方志功が入ってきて、乱暴な絵が自分の絵と合わないと思うのも重なったし、江戸時代の版画は絵描きや彫りや摺師、版元の四者が一体となって仕事に携わったのに対し、創作版画は一人で完結する世界だということが、だんだん疑問として頭にもたげてきたそうです。さらに追い打ち掛けるように、できあがってくる版画を見ていたら、江戸時代の版画の足元にも及ばないという感想を持つらしいです。一人でやった仕事はたいしたことできないと思うようになっちゃったのね。

 日本の絵画を基調とする美術工芸の世界は共同でやんないといけないでしょ、それが今はそうじゃなくなってるから問題が大きくなってる。人間同士の関係を取り戻すことにこそを、問題の原点にしないといけない。その自覚がここ(石川県加賀市吸坂町)に来ることについて、私との対話を深める大きな動機になってると思います。私がここへ来ることを承諾してなかったら、ここは生まれてなかったし、古九谷も九谷もくそもなかったんじゃないかな。先生もそこまで決心して一人でもやるつもりはなかったですから。

 先生とは相当、対話しましたよね。ぼく一人ではできない、ってはっきりと言っていました。あなたがいれば百人力だって言われました。人間への力、信頼というか。みんな力を無駄遣いしてる、って言いたかったんじゃない?芸大なんか行ったって、たいしたことになんないよ、って言いたかったと思う。みんな違う方向向いてるから。安井さんはドランだし、梅原さんはルノワール一辺倒だし、絵が売れて有名になって先生先生とちやほやされて、頼まれればやたらお金に代えられて。硲先生はそういうのじゃなくて問題意識がすごくあって、自分の仕事は何なのか、その目的はどうあるべきか、考え続けて生きていた。だから痛々しいというか、理解者がないというのは悲劇だと思いましたね。

今日の自分より明日は違う自分になれる

 (なぜ絵なんだという問いに回答はあったのか?)ありました。自己超克というか、今日の自分より明日は違う自分になれるんじゃないかと。だから今の自分のままでとどまる気持ちはなかった。絵をパターン化したり、僕はヤナギの下のドジョウは追わないとか、同じパレットを使うなとか、そんな言葉で表現していました。私はなるほど、と実感持って受け止められます。いつも新しい気持ちで生きようとしていた。いつも新しい自分を生みたいというか。そういうことがヨーロッパの進歩的な絵描き、クールベやコローなど近代絵画の巨匠に関心を向けていくのよね。ゴッホやマティスやセザンヌにずっと直結しているんだけど。その道のたどり方がまっすぐだなーと思いますね。日本の絵画がそこに通じてるってすごいな、って私は思います。

 今の私には油絵は遠く感じます。油絵より焼き物の方が普通の人にも実感的に通じやすいものがありますよね。焼き物は生活の道具となり得るけど、プラスチックの道具なら何の感情の行き交いも生まれません。それに慣れてしまうと、感覚がまひしてしまう恐ろしさを感じます。ちゃんと人間の手で作ったもので食べてるのと、違うと思います。知らず知らずのうちに感性って育てられると思います。日本くらい、器も食べ物も探究して工夫を重ねる国民って少ないんじゃないかな。

 ヨーロッパで勉強したまなざしで日本の文化を見ると、全部が絵の材料であり、表現の対象になるんだよね。ふすまであれ、屛風であれ、欄間の透かし彫りもそう。火鉢にしたって、ありとあらゆる物がキャンバスじゃないですか。そういう発見が私にも大きかったよね。豊かな感性を感じますよね。島国というだけでなく、日本が四季があって、千変万化の天災もあって、常に不測の事態を想像して生きなきゃいけない緊張感というのは、民族として、生物としてとても大事じゃないかな。

 ヨーロッパの視座をいつも持ってるから、私なんかは何回か出たり入ったりしただけど、ああいう方と20年でも暮らしたというのは、恵まれていたと思います。私の負けず嫌いな体質とも合ったんだと思いますね。(続く)

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(2022年1月12日、吸坂町のアトリエ前で)


 


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