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#1 海部公子という生き方

海部公子(あまべ・きみこ)さん。1939(昭和14)年に横浜で生まれ、終戦後、東京でおでん屋を切り盛りしていた16歳ころに、洋画家の硲伊之助(はざま・いのすけ)と出会いました。23歳で硲とともに石川県加賀市吸坂町に移り、色絵磁器の表現を追求する日々が始まります。まずは横浜での幼少のころからたどります。

 神道とクリスチャンの家に生まれて

 1939(昭和14)年9月9日、母親の実家がある横浜で生まれました。ナチスドイツがポーランドに侵攻した年です。1945年8月の終戦時は5歳と11ヶ月。あと一カ月で6歳になる時でした。

 母方の祖父である福井銀次郎は建築家でした。若い時に大工から出発して建築家になりました。横浜の建築家の中では成功者だったと思います。仕事ができる人で。亡命ロシア人バレリーナのアンナ・パブロワの稽古場や住まいをつくったりして、それは町史にも載ってるそうです。祖母の村井ヤスはクリスチャンで伝道師の家に生まれました。教会生まれの教会育ちです。だから母は熱心なクリスチャンでした。

 私は長女で年子の弟と5つ下の弟がいるんだけど、3人とも生まれてすぐ洗礼を受けました。洗礼名が「小さき花のテレジア」という名前でね。そういう聖人がいるんです。

 父の方は神道の家なんです。神職です。それも古代にさかのぼるような家の出身で。だから小さいときから「うちは特別な家なんだよ。だから人に恥じるような生き方はできないんだ」みたいなことを言われたことがありました。

 「日本三家の一つ」と言っていましたけど。日本三家とは千家(出雲大社)、和気(紀三井寺)、海部(丹後元伊勢籠神社)のことです。丹後の宮津の先に「天橋立」にいうところがありますね。天橋立の駅を降りると船着き場があって、船で20分ほど走って着いたところにある神社なの。丹後一宮の元伊勢籠神社。そこの代々の神職の家です。

 父の竹下忠美(ただよし)も海部の血筋なんですが、その一代前に天橋立の神社を支えた人の一人が竹下という姓で、父方の祖父がその名跡を継いだそうです。私の父親は6人きょうだいの一番下です。男3人いたんですが、真ん中が亡くなって。長兄の穀定(よしさだ)が海部家に養子に入って、海部家の81代目を継いだんです。

 父も叔父もともに台湾生まれです。祖父の竹下定千代が内務省の役人で、台湾総督府の役人をしてたんです。そこで生まれたのが私の父親と兄貴、そして女のきょうだいが三人いました。

 叔母の一人が陸軍大佐に嫁いだのですが、夫は終戦後に九州に帰ってきた後、病に倒れて病院で亡くなったそうです。軍人への風当たりが非常に強くて、叔母は5人の子どもを抱えて路頭に迷ってしまって。私の父と天橋立の叔父の家を行ったり来たりして。うちも横浜の家で引き受けました。

 その叔母は茨城の息子のところで亡くなりましたが、あと二人の叔母のうち一人は30歳の時に亡くなってます。一番下の叔母はお産で25歳で亡くなってるんです。だから私たちは会ったことないんです。でも私たちの横浜の家に居候していた叔母の一家は、子どもたちもいとことして、どさくさの中で親しく暮らしていました。

忘れられない玉音放送

 5歳の時に終戦を迎えました。うちは居候がいっぱいで、本当に食べ物がなくて大変で。食べ物を調達するのに骨が折れて。母の芳枝はお嫁に来るときに持ってきた着物を持って郊外の農家を回って、おいもに変えてもらっていました。そうして苦労していることを身近に感じて育ちました。

 父は日本水産という会社の社長秘書をしてたんです。志願して南平洋のクジラを捕る船に乗って、シロナガスクジラのお腹の上に乗っかってもりをもってる写真残ってますけど。

 夢の多い青年だったように思います。音楽が好きだったり、考古学に興味持ったり。写真が好きで、エキザクターというドイツのじゃばらのついたカメラを大事にしていましたね。撮った写真がうちに何枚かありました。

 竹下家は裕福な家ではなく、むしろ質素な家だったと思います。行儀作法はやかましくて。小さいときからお祈りなしにはご飯を食べられなかったし、寝る時の祈りもありました。クリスチャンの生活ですね。うちには神棚も何もなくて。男の子は父が連れて神社にお参りにいってましたが、私はうちでお祈りをするような習慣でした。

 母は結婚までは病院で薬剤師として働いたみたい。帝国女子医薬専門学校の薬学部を卒業しています。今の東邦大学ですね。

 終戦直前に父に赤紙が来て、30歳をすぎて応召したんです。それで外地に出される前に胃に穴があいて喀血して。ともかく神経が繊細な人で、しょっちゅう胃腸の具合は悪かったですけど。送還されてうちに運び込まれた情景を覚えていますよ。3部屋しかない借家でね。横浜の森町というんだけど、裏山を抱えて、目の前に海を控えた湘南の風光明媚なところです。

祖父は横浜大空襲の犠牲に

 夏は海へ行き、春から秋は山を飛び歩くような環境で。そういうところを選んで引っ越したようですけど。建築家だった祖父は1945年5月29日の横浜大空襲で亡くなったんです。そのとき祖母はすでに離婚して横浜の別の所に住んでいたので、祖父は後妻と一緒に亡くなりました。後妻との間に息子が二人いました。母は腹違いの弟であっても慈しみ、私たちきょうだいもこの叔父に親しみ、二人が亡くなるまで交流を続けました。

 祖父が亡くなったときは15歳だった次男が叔父を一人で探して、一人で荼毘に付したそうです。というのも長男の方は兵隊に行って満州とソ連の国境のどこにいるか分からない状態でした。のちに帰国して大けがして入院していたそうです。

 父は応召してすぐに家に送還されて、家ではだいたい伏せっていました。枕元に洗面器があって、その中にチョコレート色の血がたまっていました。そのうめき声とラジオから流れる天皇陛下の玉音放送が私の耳に残っています。5歳の記憶です。近所の大人たちが玉音放送が流れる暗い家に向かって頭を下げ、敷石の前にうなだれているんです。その背中にかんかん照りの日が当たっていました。私はあの日を絶対に忘れないですね。

 それまでは警戒警報がしょっちゅう鳴って怖い状況で、防空ずきんやらを上から取って着替えられるようにしておかないと寝ることもできなかった。防空ずきんをまずかぶって、庭に掘った防空壕に避難することが何度かありました。腰には煎ったお米をおばあちゃんがぶらさげてくれました。そういういつ自分たちも爆弾が頭が落ちてきて死ぬかわからないという恐怖の中に両親はいたと思います。だからこの子たちが孤児になるということを考えていたと思う。

 それでか大人に、人さまにかわいがられる子に育てたいというのがあったと思います。うちにお客さまが来ても行儀悪くお菓子をねだったりしないようにとか、お茶をお出ししたりとかは結構やかましかったですね。

 玉音放送の意味は何にもわからないけど、異様な雰囲気は感じてましたよ。それと戦争が終わったというのも感じました。数日たってどんどん生活が変わってきて。二駅か三駅先の杉田という駅に行くと闇市が立って、そこでテント張りの露店がずーっと並んで。そこに警察の手入れがあると、クモの子散らすように荷物を抱えて逃げていく人たちがいて、それを呆然と見送ったりして。

卵1個をきょうだいで分け合った

 食糧は本当になかったんですが、母がクリスチャンで家に居候もいるんです。そのなかで食事を出さないといけない。絶対にその人たちの分も、自分の着物を売ったりして調達してくるんです。おばの子どもたち以外にも全然見知らぬ人も、何日間か泊めて食べ物を分かち合ったことがあります。

 でも今はね、そういうことはよかったと思いますよ。いい経験させてもらえました。うちのなかに社会があるっていうか。でも隣の家から甘いあめを作るにおいがしてきて、それをうちも作ったらいいと思って母に言ったら厳しく怒られて。「人さまは人さま、うちはうち」だと。「うちはうち」というのが母の口癖だったかもしれない。比べることが許されないというか。

 結構、父親より母が厳しかったような気がしますね。父親は体が弱くて家事もできないし。だいたいそのころ職業婦人なんて珍しい時代に外に働きに出ていました。うちには叔母がいて。経済的な苦労より義理の苦労をした人でしたね。だからすごく人の気持ちを慮る人でしたね。食べ物を公平に分けなかったりしたら、相手がどんな気持ちになるかとか。

 にわとりの世話を私と弟でしていて、朝、鶏を追い出して、ふんを掃除して、はこべや貝殻をふすまと混ぜてえさをやったり。卵を集めてためるんです。10個くらいたまると近所の困窮している人や病人に分けていました。その卵を母が2~3日に一回、私たち3人きょうだいに1個置いていくんです。それを私が1個わってしょうゆ掛けて、弟たちのご飯にかけて。そのおいしかったことといったら。貴重品ですよ。その記憶はすごく鮮やかです。

 でも母がよその人に持って行くのを非難がましい気持ちは持てなかったの。しょっちゅう世の中には困っている人がいて、その人たちはどれだけ惨めな思いをして生活しているのかをこんこんと説明されることもあったし、世の中で自分の目に触れた物は自分の責任なんだ、という気持ちを小さい頃から母によって持たされていたような気がしますね。

 母は料理とか家事が一切できないまま結婚したので、そういうことがよくないと思ってたのか。私は4、5歳からご飯がたけること、みそ汁が作れること、そして何にもまして経済的にも栄養的にもいいぬかみそがちゃんと漬けられるようになること。この三つはきっちりと覚えさせられました。だから両親のご飯も弟たちのご飯も私が作っていましたね。(続く)


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