見出し画像

#5 海部公子という生き方

 若干16歳にして渋谷駅そばに開いたおでん屋を通じて、海部さんは生涯の師となる硲伊之助と出会います。三鷹にある硲の自宅兼アトリエに通うにつれ画家の仕事に関心を深め、また硲の人間性に惹かれていきます。そもそも海部さんと絵のつながりはどこから始まったのでしょうか。小学生のころの思い出にさかのぼります。

おでん屋をきっかけに、絵の人生が始まった

 五里霧中でおでん屋をやっていた時に出会ったお客さんで、丹羽さんという外務省渡航課の人がいました。その丹羽さんから「僕は(外務省の)美術同好会の世話をしていて、モデルを探してるんだけど、バイトのつもりで来てくれないか」と言われました。

 それでモデルのバイトをしている時に出会ったのが、美術同好会の先生をしていた大倉道昌さんです。私が絵が好きだということが分かって、「僕が一番尊敬する絵の師匠は硲先生だ。ぜひ引き合わせたい」と言って、三鷹の硲先生の家へ連れて行ってくれたんです。1955年、16歳の時です。高校一年生の時に休学しておでん屋を始めてすぐの時、1週間か10日目くらいの時でした。

 びっくりしたのが硲伊之助美術館ができてから、その丹羽さんがここへ一度来たんですよ。その間40年くらい交流がないのに、どこかで聞いてやってきて驚かされたの。その人は別に絵描きじゃないし、ただ絵のお世話にしてた関係で私を美術同好会につないだだけです。

 その丹羽さんが偶然おでん屋に来たことから、私の絵の人生が始まっているんです。いろんな人が来る場所でしたからね、渋谷のど真ん中で。人種のるつぼみたいな感じで。私は毎日興奮状態でしたけどね。面白くて。だから親が心配するようなことは私の心の中にはなかったんだけど。普通の親は心配するのは無理ないと今なら分かるけれど、何にもうるさいことは言われないんだけど、目を光らせてる感じはありましたね。

 親とは合意するはずがないと思ってましたから、家を飛び出したというか、巣立ったという感じですね。ふろしき包み一つ持って、書き置きをちょっと残して。プチ家出と後で言われましたけど、それ以来家には戻ってませんから。でも時々家に寄って、20歳の誕生日にはお赤飯とご飯をつくってくれて。でもそれも家では一緒に食べる気がしなくて。ショーペンハウエル(ドイツの哲学者)の研究者で筑摩書房の編集者の石井立(たつ)さんのところへお見舞いかたがた行って、一緒に食べて雑談した覚えがあります。

 石井さんは入水自殺した太宰治の遺体を引き上げた人なんです。それほど深いご縁ではないんだけど、結核で療養所に入ったと聞いてお見舞いに行こうと思って電車に乗って鎌倉まで行きました。そこでお赤飯を食べたんです。別にその人を男として好きだったわけでもないんだけど、実家で過ごすという気持ちにはなれなかった。いろいろ言われるだろうと思ってたし。ともかく干渉されたくないというのがありましたね。その頃の気持ちは今の若い人に通じるかもしれない。両親が仕事を一生懸命やって、特に母はものすごく頑張っていましたから・・・だから安心したと思いますよ、ある時期を過ぎてから。

絵を仕事にして生きるとは?疑問をぶつけた

 大倉さんに硲先生の三鷹の家に連れて行ってもらったのが1955年です。それから何度も通うようになりました。一人でも行ったし、大倉さんと行ったこともあったし。先生も「いつでも来ていい」と言ってくれました。若い娘の私を、ちょっと変わり種に感じたんじゃないでしょうか。

 絵を描いて生きていくという生活がどういうものか皆目わからないので、先生にあけすけに質問しましたよ。「絵描きになるのは芸大行かなきゃだめなんですかね?」とか。そしたら「君は先生になりたいの?それとも絵が描きたいの?どっちなの?」って逆に聞かれちゃって。先生になりたいとは思ってないな、と思って。「ほんとに絵が好きなら、僕は芸大は勧められない」と。「芸大は絵描きを育てるところではなく、年に何人教師をつくるという場所になってる。ほんとに絵が描きたいなら、行く必要ないんじゃないか」と言われましたね。

小学校の放課後、先生に絵を描いて一日一枚渡した

 小学校一年生の時に横浜の森町というところに住んでいました。後ろに小高い山、目の前には青々と広がる海が見える場所でした。入学したのは1946年、国民学校一年生でした。国民学校と名付けられた最後の一年生。次の年からは小学校になりましたけど。「国民学校一年生」という歌を歌わされたのを覚えています。

 受け持ちの先生が浅見弥生先生という24、5歳の若い女の先生でした。彼女が「放課後、私に一枚ずつ絵を描いてくれない?」と言われて、すごく張り切っちゃって。その先生と仲良くなっておうちに遊びに行きました。そのことも親に言ってないなあ、私。先生は絵描き志望だったみたい。とっても上手なんでびっくりしたんです。自分でとじた絵の画集を見せてくれて、縁側で一生懸命に見て。先生がね、「私の婚約者を紹介する」といって、私には画集を見せてお茶とお菓子を出してくれて、レコードかけて、畳の部屋でその彼とダンスをしたんです。すごく大人の世界もいいなと思いましたね。先生は後にその恋人と結婚して小林さんになりました。絶対忘れられない先生です。

 その頃はうちがとっても厳しい教育をし始めたころで、トイレの掃除をしないと学校に行かせてくれなかった。徹底的にきれいにすることを母が教えてくれて。今のトイレと違いますからね。昔の深くて気持ち悪いトイレです。ちり紙なんてない時代ですから、新聞紙をもんで積み重ねて。そういうのをちゃんとして、掃いて拭いて。それもずるずるの雑巾じゃだめで、固く絞ってと何度も言われて。それが嫌で嫌で、母に「終わりました」って言いに行くと「やり直し!こんな汚いやり方がありますか」「きちっとできないなら学校に行かなくていい」と言われました。それで私も3回か4回やり直しをして。

 その記憶がすごく残っているのは、嫌なことから逃れるためにどうしたらいいか、6歳の頭で必死に考えました。「お母さんはどういう風に最初教えたかな」って思い出して。そして最初に掃いて拭いて、雑巾を固く絞ってと言われたな、と思い出して、徹底的に丁寧に仕上げたつもりで最後行ったんです。そしたら「よろしい」と言われて。「やったー」と思ったんです。達成感がありました。その気持ちはなんかの折につきまとっているのを感じますね。母は絶対に途中であきらめない人でした。

 学校には何のために行ってんだといったら、勉強にいってるんですよね。うちでは足投げ出して本読めるような雰囲気の家ではなかった。そういうことしたければ、うちの中のことを全部やってからじゃないと駄目だと思ってました。厳しかったけど、よその家と比べちゃいけないというのがあったから、それが生活だと思っていました。親を手伝うという意識ではなく、それは仕事として、一緒に生きてる人間の当然の勤めとして、女の私は特にみんなの食事の世話を責任持たされていましたから。1日100円のおかず予算だったので、いとこ達も入れて7、8人分の算段は工夫が必要でした。

 私がいなくちゃこのうちは持たないというのは感じていました。学校の行き帰りは今日のご飯、明日のご飯のことを考えて。一円でも浮かそうと考えていました。でもお豆腐屋さんとか乾物屋さんと仲良くなるでしょ。そうしたら私が行くのを待っててくれて、揚げ物の切れっ端を煮物にするのにたくさんとっといてくれたり。みんな親切にしてくれて助かりましたね。飼ってた猫が近所から大きなイカを引っ張ってきたことがあるの。周りが見てないのをいいことに、猫からそれを取り上げておかずの一品にしてみんなに食べさせたこともあった(笑)。ずっと言わなかったけれど。毎日家族8人いて、みんなお腹すかせてるでしょ。それをどうやりくりするか、課題でしたから。それは今考えると必死に生きてたようなんだけど、そんなに深刻な感じではなくね。

美術の先生と仲良くなって図工室に出入りした

 絵を描くのはもともと好きだったんじゃないかな。塗り絵は随分親が買ってくれたり、絵本を読んだり。先生には毎日放課後にちょちょっと絵を描いて渡したんだと思う。その先生が大好きで、先生のおうちに行って日差しの縁側で食べたお菓子とお茶、そして自分で書いた絵を見せてくれて、フィアンセまで紹介してくれて。今の空気と全然違いますよね。当時は先生のありようも多様で、あだ名をつけたり。自由だった。制服もないし。先生と仲良くなるチャンスが結構あって。

 東京・中野区の新井小学校に四年生の二学期に転入して通いました。当時10歳でしたが、教師や同級生に対して、その人柄とか生活感の違いに関心がありましたね。美術の先生や養護教諭の先生と仲良くなって、休み時間にはどっちかに行っていた。美術の先生とは図工室に出入りさせてもらい、何を話したのか覚えていませんが、油絵のモデルになったり、哲学堂に散歩したりとご一緒しました。絵画への関心が、私の背骨になっています。

 絵描きになるってどういうことだろうとずっと思ってはいたけど、職業にするのはどういうことだろう、女性で絵描きにちゃんとなっている人がいるんだろうかとか、疑問があった。だからそれを目指して生きたというわけではない。方向づけられたのは硲先生に会ってからですね。

 10代のころは人の顔みたらちょっと描いたりしていました。中学校の卒業のメッセージに「将来はえらい漫画家になってください」とあったり。図工の時間は好きだったし、数学の方向よりは文化的な方面の美術や工芸に関心はあったと思います。だからおでん屋やるなんて全く計画外でした。職業に貴賎はないという思いがずっとあって、人の生きる邪魔をしたり、盗むな、殺すな、うそつくなで、宗教的な空気がうちにあったせいか、そいういうのが身に着いていた気がします。

 だから人が水商売とか言って、なんでそんな卑下した言い方をするんだろうと。実際にやってみると面白くてね。世間にもてはやされる世界よりも、いわゆる底辺で生きる人たちのほうが人間的に優れた人がいるのを発見したし、そして好きになれる人が多かったですよね。硲先生もそういう世界に重心を置いて生きてきた人だと思うんです。だから生きるのは楽でしたよ、ずっと。先生と知り合ったことでも励まされましたし。いい人との出会いが随分重なりました。

 負け惜しみのように受け取る人がいるかもしれないけど、「成功の虜囚になるな」というのがあって、お金でも地位でも、持たないよりはいいと思ったことがないのです。

公平なまなざしは家庭で培われた

 人やものを見る公平な目線は、家庭で培われた部分が大きいですね。昔は感謝してなかったけど、今は感謝ですね。親には私の心を見透かされてる感じがあったのよね。母とも父とも言葉でのやりとりはあまりしたことがないんだけど、いつも是か非か、私の心に問いかけてる空気がありました。父親は幼いときは優しいだけというか。生き物が好きでウサギを飼ってたり、ひよこを卵から返して、電球を引き入れた箱の中であっためて。無骨な父の手がひよこに触ってる様子が記憶にありますよ。ずっと後に知った平塚雷鳥の夫は画家で、奥村ひろしという人ですが、人の注文を受けて指輪づくりなどをしていたようです。うちの父も母のために指輪をつくったり。なんでも物をつくるのが好きで。戸棚をつくったり。ガラス戸がついた本棚作ったり。かなづちとかんなをもって、設計図を書くのも好きでしたね。

 母がクリスチャンだったことも影響していますね。学校行く前も勉強よりもキリスト教のお祈り。今でも、天使祝詞とか暗記してますもの。家出る前までは教会に通わされていましたからね。一週間に一回行くと、自分が行った悪しきことを振り返り、考えて、それを神父様に告白してお祈りを課せられたりするんです。教会のたわいない行事を体験したのは、自分で気付かずにどっかに染みついているのかもしれないですね。私は熱心な信者ではありませんが。

 幼いときに原点があるな、と思いますね。よく育ててくれたと思います。母親ととっくみあいしたこともあります。私はおねしょが小学校5、6年生まで結構あったんです。母親は本草学をやってたからおなかにお灸をすえるんです。へそ下三寸の下腹にお灸をすえられるのは、本心で恐怖でした。おねしょを直すために母に組み伏せられて、お灸を据えられたことあるの。あの体の弱い母が息せききって私に乗り掛かってきて、そのときには大きくなったら絶対殺してやると思ったりした。恐ろしい芽生えを感じましたよ。

 だから戦争中にいろんな人を居候させて、食べ物を絶対に公平に分けた母のやり方は納得してましたね。自分たち以上に困っている人の立場にならない人間は駄目なんだというのは、ずっと染み付いています。母は経済的な苦労はしなかったと思うけど、複雑な家庭で育っているので精神的な苦心はかなりあったんじゃないかな。人の心の動きに敏感で想像力ある人だったと思います。母とは時々小学校入学以前から、裏の山に野草を取りに行って、縁側に干したりしました。母親が働いているというのはすごくいいことだと思いますね。母はご飯炊けなかったらしいの。母は自分が下手だったからというのがあってか、ご飯をたくのと、味噌汁とぬかみそはつけれるようにというのは5、6歳の時からやらされました。

 というより「やればできた」ので、当てにされ、それが私自身の存在価値の自覚につながり、私が必要、私がいてこそ、という感じが何となくあったと思う。父も母も弱いところがあって、それを子どもの私は感じていたし、それは厭なことではなかった。実生活への早くからの参加、疎外されなかったこと、このことはよかったと思う。子どもに本当のことを伝えることは大事ではないかと思いますね。(続く)

画像1


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?