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#4 海部公子という生き方

 戦後間もない渋谷駅周辺は喧噪と活気に満ちていました。誰もが生きるのに必死な時代でした。「大和田胡堂」と呼ばれる飲食店街で、おでん屋を開いた海部さん。混沌とした状況下でも、持ち前の明るさと強さではつらつと店を切り盛りしました。その大和田胡堂での思い出をもう少し振り返ってもらいます。

おでん屋の向かいにあった外食券食堂

 叔父がおでん屋を始めた私を見つけ出して「お前なんでこんなことやらなきゃいけないんだ」みたいに言われたことがあります。「身を落として」みたいな風に言うんです。私はそんな気持ちじゃない、私は今の生活を自分で選んでやってるんだ、心配しなくていいと弁明しましたね。そしたら「いくらお金があったら助かるんだ」とか「辞められるんだ」と言われて。

 そのおでん屋の二階が小さい木枠の出窓のある三畳一間押し入れ付きで、私はそこに寝泊まりしてたの。叔父は事情があって私の親と没交渉だった時期があって、隠れて私に会いに来ていました。そしてその三畳間に泊めてましたよ。翌日は真ん前に「大和田食堂」っていう外食券食堂があって、そこでご飯を食べました。当時は外食券がないと食堂に入れなかったんです。朝食はみそ汁、おかず付きで15円くらい。そこで叔父にごちそうしたりして。叔父が本当に珍しがってね。

 面白い叔父でした。ちょっとそそっかしくて現実離れしたところがあってね。私は好きでした。国学院を卒業して哲学に傾倒して、ドイツに留学しようとした直前に、弟である私の父が肺炎か何かで寝込んだのを看病して、留学の機会を逃したらしいんです。父はそのことを知らないのね。話さないまま別れちゃったんだけど。兄弟でも少し離れてる間にいろんなことが起こるし、本当のことはなかなか伝わりにくいものだなと思いますね。生きてる人間ていうのは。だから叔父は時代の波の中で孤独だったようです。

 GHQに全て統制されて伝統文化を否定された。特権階級扱いされたようですね。その誤解というか、まじめに自分たちはやってきたのに何でこんな目に遭わないといけないのかと。そういうのが伝わってきました。

 おでん屋に集まってくる人たちはノンポリもいれば、過激な人もいるし、いろんな人がいて。そのいろんな考えに触れる機会になったっていう意味でも面白かったんですよね。だから一色には染まりきらないところがありますね。今でも。

 叔父が外食券食堂で出てくるサンマやら冷や奴がおいしいっていうのは面白い記憶なんだけど、それと一緒にその頃、お店やってて私が一人になっちゃうこともあるんですよね。店をちゃんと最後まで営業して店を閉めるんだけど、一人でもお客が店にいると閉められない。いつまでも粘ってる人がいるの。カウンターに二階に上がる階段と外に出入りする戸があって、外側にもお客が出入りする戸があるのね。そのどちらも戸締まりしないと二階に上がれない。でもちょっと早く計算したいしと思って、おとなしいお客だし、全然知らない人でもないし、でも下心があったらしいの。

大きなそろばんを振り下ろして撃退した

 築地の市場で買った大きなそろばんがあるの。それが気に入って私は二階で一日の売り上げの集計をしてたのよね。上に上がってしばらくしたら、カウンターの内側の戸が開く音がしたのよ。「あれっ」て思ったのよ。とっさに身構えて、ミシッミシッって上がってくる音が聞こえるの。「わーっ」と思って上で待ち構えて、その大きな木のそろばんを頭が見えた瞬間に振り下ろして投げ付けたんです。そしたらズッテーン、ゴロンゴロンって階段を転がり落ちちゃったの、その人が。そして「ぎゃーっ」って言って外へ逃げ出したの。私は息弾ませて戸の鍵を全部閉めて上に引きこもったのよね。

 怖かったのよね。頑丈なそろばんで壊れなかったのよ(笑)。ところがよ、翌日午前11時ころに店を掃き出して開店の支度をしていた時、「こんにちは」という声がしたのでハッと見たら、夕べのその人なのよ。私の顔見て「あの、夕べはすみませんでした。私、骨拾いに来ました」と言うのよ。そんでニヤッと笑うと、前歯が何本かないのよ。自分で歯を指さして。もう驚いた。「そんなもんありませんよっ」って言ったの。それで逃げていったけど、その人が意趣返しに来るかもと思ってしばらく用心してたけどね。そのときはそのときと思ってた。でも結局来なかった。それに近いような武勇伝は幾度か発揮しましたね。

 だから女も子どもと言えども、命懸けという感じで向き合えば何とかなるもんだと思いますね。やくざの人が味方してくれたこともあったの。「何かあったらうちに言ってきな」って言ってね。

 「ロゴスキー」っていうロシア料理のお店もあった。大和田胡堂のちょっと外れのところでね。おでん屋時代も行ったし、その後も何度か行った。その雰囲気が好きでしたね。ロシア民謡の空気がそのままあるような。ロシア料理もおいしいんだなぁって思った。ピロシキとか。「ガルショーク・ス・グリバーミ」というキノコの壺焼きも好きだった。上にパンが焼き付けてあって、フォークでパンを突き破ってパンと一緒に食べるの。おいしいのよ!食べたいでしょ。後でね米原万里さんたちと一緒に行ったこともあると思う。

 大和田胡堂は雑然というか混沌というか、生きる命が沸騰してる場所っていう感じですね。その渦中に飛び込んだという感じですね。流しをやっている人たちが店を巡って来て顔見知りになった人もいましたよ。バイオリンとギターの3人組とか2人組とか、いろんな人が生業にしてるのよね。花を売りに来る人もいたし。面白いよ、あれは。だから刺激の多い場所でしたよ。

 私が一人で頑張ってるって分かってくれる友達は一生懸命に応援してくれるしね。着る物をいくつも束ねて持ってきてくれたり。なけなしのお金で買ったであろう宝石まで添えて、売るか質屋に入れるかしてお金作ってよって。身銭切って助けてくれるような人が現れるんで、世の中って捨てたもんじゃないなっていうのはこの頃から実感しました。私は自分が生まれ育った環境の中にとどまっていなくてよかった、ていう方が大きい。

いとこに掛けた言葉を悔いて

 そういう世界に入るきっかけはどこにあったかというと、れいちゃんという8歳年上のいとこがいて、彼女が私の横浜の家で一年同居してたことがあるんですよ。軍人だった父親を亡くして一家が路頭に迷ってしまって。私が7、8歳くらいのころのことです。彼女はなかなか小さい頃から美しくて才気のある人で。字もきれいで、いろんなことができるいとこでした。うちの両親もかわいがっていたみたい。だけど人の家の居候になって、自分がこうしているわけにいかないと思ったのか、大阪に働きに行くって言って別れたんですよ。そのいとこが大阪の花柳界でバーに勤めたとかいううわさが入ってきたのよね。水商売に入ったっていうので「れいちゃんも気の毒なことになった」みたいなことを言っていました。

 そのれいちゃんが東京のうちに立ち寄ったことがあるの。その時にすごい派手な格好をして、爪を赤く塗ったり、派手なお化粧をしてやってきたんです。それ見て私が子どもでバカだから「まるでパンパンみたい」って言っちゃったのね。それを私は今でも恥ずかしいと思ってる。その頃、そういう人たちが駅の周辺にたむろしてたんです。アメリカ人のジープに派手な出で立ちの日本人の女性たちが乗っかって、行ったり来たりしてた。そういうのを目にしてたから、似たような感じを受けちゃったのよね。れいちゃんに世話になっておきながら、私はなんてことを言ったんだろうという、すっごい今考えても嫌な気持ちになる。そういう言葉を吐いたことがあるんですよ。

 それがすっごく頭にあって、その世界を知りたいというのもあったのかもしれない。もしかしたら。子どもって何考えるかわかんないね。だから親は子どもにあんまり責任持たない方がいいかもしれない。たとえ自殺するような未来しかその子に約束されていないとしても、親はそれほど責任を感じて、先回りして心配なんかできるもんじゃないと思う。親の立場になって考えてみると、私が考えてきたことなんて親は分からないと思うもの。それを知らせようとする術もないし。ほんと今は感謝しかない。よく育ててくれた、生きる力を育ててくれたという意味で大感謝です。

 今の親はあまりにも子どもの責任を自分に課しすぎていると思いますね。それで余計なお世話だと思われていたり。もう少し自活、自立の生活力を身に着けさせて、親は面倒みないといけない存在なんだよ、くらいの方がいいんじゃないかと思いますね。いわゆるエリートになっても、例えば国会に一日中座って、聞こえてきても意味がわからないことたくさんあると思うのよね。現実を知らなくて。だから気の毒に見えますね。もっと裸になって、素の自分で生きることに挑戦してみたら、随分違った人生になるんじゃないかと思いますね。

 とりあえず大学くらい出た方がいいかな、っていうくらいでいいと思う。入ったことで達成感を持っちゃって、芸大に入った人でちゃんと絵の道を達成してる人は少ないと思う。先生になれても満足してる人はあまり見たことがないですし。多様化が問われている今の状況は悪いことばっかりじゃないと思いますね。

負けん気が強かった子ども時代

 子どもの時のことを思うと、弟がいじめられて帰ってくると、私が仕返しに行ってたの。私自身、今みたいに雄弁じゃなかったです。私は二歳の時に弟と一緒に言葉を発し始めたらしいの。だからけんかすると、言葉じゃかなわないんです。道路に敷き詰めたコークスみたいのを取り上げて、それを弟をいじめた人にぶつかっていって、けがさせて怒鳴り込まれたこともありました。「お宅の娘はひどい娘だって」言って。親にげんこつでしかられたこともありました。7、8歳ころから私はきかない性格を発揮したようですね。弟が耳たぶから血を流して帰ってきたときは、隣のケン坊をゴミための中に突き落としたり。

 野山駆け回って、やれ石蹴りだ、隠れんぼだ、鬼ごっこだって、やいやい遊びましたね。横浜のまちなかからそういう場所に引っ越したのは父の方針だったようです。母は雙葉やフェリスとか、そういうところに私を入れようとしたようです。制服着て革靴履くようなところにあこがれていたみたいですね。そこは父とやり合ったらしい。父はそんなのよくない。げた履いて百姓の子どもと一緒に勉強させた方がいいって言って。歩くのが良いからと、げた履いて一里くらい歩いて通いましたね。

 校長先生の娘が同級生でね。その校長先生が内田先生というんだけど、私が歩いてると、崖の下に田んぼがあって、そこで草取りしてて「おーい、おはよーっ」って声掛けてくれるの。制服もなければ規則もなく、先生はえらいものでした。今の先生はとっても大変な時代だなと思いますね。

 自然から離れたら人間の命もないっていうのは原点のような気がしますね。手仕事、自分の実感のある生活、等身大の生活が大事なのではないでしょうか。あまりに巨大な夢を見て大きなことができそうな気がするっていうのは、間違いの始まりのような気がします。問題山積だけど、解決先がないわけじゃない。(続く)

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