#16 海部公子という生き方
「家を手放して先生の作品に変えたい」
その頃の生活は作ることが生活の中心でした。清水喜久男さん(石川県加賀市大聖寺山田町)が窯から上がった物を持って行くと買い取ってくれました。清水さんはある日訪ねてみえて、「作品がほしい」と。当時は中日新聞が熱心にここのことを記事にしてくれていたので、それを読んで興味を持ってくれたようです。大同工業のサラリーマンで、退職後することがなくて退屈してたらしいの。それで「この古い家を手放して先生方の作品に全部変えたい」なんておっしゃるんでびっくりして。井伏鱒二さんとその親友の金沢の広瀬三郎さんという建築家たちと一緒に清水さんを説得に言ったの。
「この古民家はまちを形成する重要な要素になってるんで、お宅だけのものじゃないんですよ。これはまちの財産なんだから、ここに住んで手入れをしているだけで存在価値があるんですよ」って説得して。なんとかこの家を残すことを考えた方がいいと。それで何かいい方法がないかというので、井伏さんが素敵な古民家のたたずまいに、のれんを掛けた方がいいんじゃないかと。まちのサロンにもなるし、先生たちも作品が売れれば助かるだろうし、人々は古九谷という遺産があるまちに生まれたことを思い出す場所になる。清水さんは大変美術に詳しいし、そういう人たちのお相手をする生活っていいんじゃないかって発想したのね。みんなで説得して、清水さんその気になって。「できるだけのことはさせてもらいます」っていって、経済的にもずいぶんお世話になったの。27年間、古民家で九谷吸坂窯の店としてやってくれたの。すごい人なの。だから外せないの、私たちの共生者として。
(※直売店の名称は「清水」。硲の意思により、オープンは日中共同声明が発表され、日中国交が正常化した1972(昭和47)年9月29日だった)
(以下、紘一さんの談)清水さんにはおばあちゃんがいて、そのおばあちゃんと夫妻を招いて、隣の座敷で食事をともにしたことがあったらしいです。娘さんが言うには、おばあちゃんが「硲先生からレディファーストで接してくれた」って、感激してたそうです。レディファーストなんて初めて経験したみたいで。吸坂のアトリエから小さなフランス製の六角タイルをお店に提供して、床に敷いて、広瀬さんが民芸調に設計したんです。先生は月に一度くらい道場さん(大聖寺の理容店)のところに髪を切りに行くんだけど、その後は必ず清水さんの店に立ち寄って、私はまたそこへ迎えに行きました。そこで清水さんと話をするのを楽しみにしていてね。
そこは作家にとっては作品を見てもらう機会になって、清水さんはなおかつそれを購入してくれたんです。これだめだって渋い顔しないし、もっと安くしてなんて清水さんにとってあり得ない言葉だし。それも普通なら道具屋が半分以上持って行くんだけど、そんな右から左に売れるわけでもないし、預けておくのと買い取るのと区別して、買い取る場合は4割、預ける場合は3割とか、そういうことにしてたんだけど、何一つ商売気が先に行く人ではなかった。謙虚というか、謙虚を通り越していました。私たちもお客さんが来たら清水さんのところにお連れして見てもらったり、買ってもらったり。清水さんに文章を書いてもらったこともあります。
先生が亡くなってから、先生の代表的な作品5~6点を一水会展で特別展示したんだけど、そのときに清水さんから1点借りたんです。八寸のあおいの皿です。東京の西武百貨店で展示した際、非売品だったのですが手違いがあって、それをどうしてもほしいというお客さんが現れたんです。西武の人間がわざわざこちらへ来て、「売ってほしい」と土下座せんばかりに頭を下げられました。私たちは清水さんに「売らないでほしい」とお願いしたら、不平もなく、こちらの意思を尊重してくれたんです。商売をやる人なら商機を逃さないでしょうけど、全然意に介さずにこちらの気持ちを尊重してくれました。’(以下、海部さん)すごい人がたくさんいるよ、ここには。清水さんも困ったと思いますよ。無理難題なのにね。先生はいないからもう作れないからね。奥さんもユーモアのある方で、夫婦円満でしたね。
(以下、紘一さん)清水さんの開店祝いに松の大皿を差し上げたんですが、こちらの美術館に買い戻す形にして今飾っています。私はものすごくいい作品だと思います。時代も時代だったからかなり売れるには売れたんですけど。ただ雨漏りを直すまではいかなかった。(石川県副知事の)杉山さんのところなんてしょちゅう行ってたんです。結構面倒見てくれましたね。いつか先生の作品を大阪のあるところまで持って行ったんだけど気に入ってもらえなくてね。持って帰ってきたんだけど、困ってしまって先生も一緒に県庁に持って行ったんです。杉山さんが見てね、すぐにある会社の社長に電話して、確か社長がそこへ来て買ってもらったこともあります。そうやって財界人とつないでくれたり、県の美術館にも何点か入れてもらいました。海部の長崎の夜景を描いた絵も杉山さんの世話で看護学校に入っています。
先生が気に入って一水会展で買った絵を向こうの家(焼失したアトリエ)の広間に飾ってました。鶴が飛んでる絵だけど、それも杉山さんのところに持って行って買ってもらった。毎月毎月の支払いがあるからね。杉山さんのほかにも古美術商などいくつかルートがありました。だいたい先生が元々持っていたものは東京の空襲で焼けたりしてなくなってるし、後に買ったような物はありますけど、それほどないので、自然と人の物を仲介するようなこともやってましたね。そういうのでなんやかんや自分の作品を右から左へ売れるわけじゃないけど、そうやってお金をつくってましたね。
(以下、海部さん)井伏鱒二さんや石垣綾子さん、澤地久枝さんもずいぶん助けてくれましたね。井伏さんのところに行くと、奥さんがこっそり「今日はおいくら必要なの」って。ご主人はすっとトイレに入っちゃうの。いくらいくらって言うと、ちゃんと帰りに持たせてくれて、最後まで二人で門口まで見送ってくれるの。私たちにとっては奥さん含めて大事な人ですね。奥さんが私は大好きだった。井伏さんの出版された本の表紙に、先生の陶芸作品を随分使ってくれました。
市場主義から外れるように生きてきた
一貫して稼がない主義なんです。ただ銀行の返済が月々あるから、だから展覧会を一生懸命やったり。先生の個展をやったりすればよかったけど、余裕がなかったですね。作る生活がすべて不如意ですよ。不如意に次ぐ不如意の発見っていう感じの、未だにそうで。端緒についてないよね、色絵磁器の工房っていうことでは。人間が気をそろえないとできない世界なのに、一切合切が市場主義に阻まれるというか、うっかり手を出しちゃうと描けなくなっちゃう。そういう生活ができなくなっちゃう。だからそういうところから外れるように外れるようにと生きてきた。巻き込まれちゃいますから。だから自分たちの欲望を野放しにしてどこへでもいける、なんでもお金でできるみたいな状況になったら、逆に描けなくなるので、むしろそういうところを避けて、逃げまくってきたかな。だから最低生活でいい。着る物なんかもね。先生はいいものをきちっと、ちゃんとしたものを買う人。「安物買いの銭失い」って言ってすごく嫌がるのよね。「物を粗末にすることは人間を粗末にすることだ」ってしょっちゅう言ってましたね。(続く)
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