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15時の手紙

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ささやかな昨日のできごと。
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#夫婦

クリスマスを克服した日

クリスマスが幸せだったことなど、これまでにあったかなと考えている。 子どものころを除くと、まったく難儀でつくづく憂鬱なシーズンだった。 クリスマスの日は、不用意に出かけず、外界の情報も遮断し、クリスマスなど「ないもの」として、自宅で独りでやり過ごすのが常だった。「クリぼっち」の人が自ずとそうしているように。 クリスマスというイベントを憎むほどには拗らせていなかったものの、極力敬して遠ざけたい対象には違いなかった。 今年は、結婚してから初めてのクリスマスイヴを迎えた。 妻と

美しい紅葉が訪れ、長い冬がくる

その午後、ぼくはいつものようにテーブルで仕事をしている。 同じリビングルームで、妻のみみさんはコンサートの御礼状を書いている。 いつになくぼくは仕事がはかどり、陽が傾きはじめたころに二人分の珈琲を淹れ、焼菓子を一緒につまむ。ぼくはプリンタで御礼状の住所を一枚ずつ印刷する。 その葉書が出来上がると、記念切手を買いに郵便局まで一緒に歩く。 郵便局はひどく混んでいたため、ぼくは一人で図書館に本を返しにいき、無印良品でデカフェ珈琲豆を買って戻ってくる。ちょうど切手を買い終えたみみ

君の声を聴きながら

親の人生を奪ってしまった。と君はいった。 もし私を産んでいなかったら、親はもっと違う人生を歩めたはずなのに。と。 親は子どものために、時間もお金も労力も気力も費やし、懸命に育てる。うまくいかないことも、うまくいったことも含め、子どもはやはり恩を受けている。 恩をもらったなら、いったん預かることにしよう。 そして、恩をつなごう。 親に恩を返すのもよいけれど、次の世代の誰かに恩を受け渡すのでもよい。 力不足でも仕方ない。持てる力で、恩をつなごう。 子どもは、親の世代を超えて

一緒に同じ時を祝福したい

妻が主催するコンサートが週末に迫ってきた。 新型コロナウイルス禍を隔てて4年ぶりの開催になる。会場は彼女にとって「ホーム」と呼べるような地元の小ホールで、聴衆も昔から足を運んでくれる人びとで、すでにチケットは完売目前まできている。 彼女は主催者の立場で公演を迎えるので、演奏の稽古に加え、こまごました事務作業に追われている。 舞台小道具を手作りし、構成台本を書き、プログラムを印刷して丁合いし、経費の帳簿をまとめ、打ち上げ会場の手配をし、受付スタッフなどに当日の段取りを説明する

スコーンを焼くと妻が喜ぶので

ホットケーキミックスをボウルにあけ、少しのオイルと豆乳、ミックスナッツとチョコレートチップを砕いたら、あとは一気に手でこねる。粘土のようにまとまったら、平たく形を整え、包丁で8等分に切り、オーブンで15分ほど焼く。これでスコーンのできあがり。 外側はクッキー生地のように硬く、内側はほろほろとほどける、素朴で甘さ控えめの味。とても簡単。誰がどれほど適当に作っても失敗のしようのないこの料理に、妻が欣喜する。妻が喜ぶと、ぼくも喜ぶ。 妻いわく、市販のスコーンは洗練されすぎていて、

友がみな、われよりえらく見ゆる日よ

夜。妻と近所を散歩している。ふたりともそれぞれの理由で肩を落として歩いている。 妻は、来週のコンサートのリハーサルで思ったような仕上がりになっておらず、落ち込んでいる。 ぼくは、自分の文章を書くことに対して十分にがんばりきれていないことに、落ち込んでいる。 「20年も取り組んでいるのに、こんなレベルなのかと自分でがっかりする」と妻がいう。 「よその人のことは見ないようにしていたのに、たまに“当てられる”と自分に引き戻してがっかりする」とぼくがいう。 力不足ゆえに、結果が

山に登る3つの理由

妻と山に行くのは3回めで、だいぶ慣れてきた。荷造りも、お手のものである。 平日の朝9時に、山奥の無人駅に降りる。 登山客は数組。登山路がいくつもあるので、めいめいに出発する。駅前のベンチでサンドイッチを食べてから、登山口まで半時間ほど舗装路を歩く。 今回は妻も、トレッキングポールとCW-Xを装備しているので、歩行がずいぶん楽になっているはずだ。(特に翌日の筋肉痛の重度がまるで違う) 山頂では、手作りスコーンと、その場でハンドドリップしたコーヒーを飲んだ。平日ということもあり

結婚生活にいちばん必要なものは

「結婚生活に必要なものは」と、ある映画の劇中で尋ねられた既婚者が、シニカルに答える。 忍耐。 妻もぼくも、激しい違和感を抱く。(ほとんどブーイングの心境である) ぼくらの答えは一致している。 会話。 これである。 忍耐も5番手くらいには必要だろうけれど、初手であるわけがない。 逆に、いのいちばんに忍耐をしてまで続けたいと思う結婚とはいったい何なのだろう。(世間体や、子どもや、経済事由か) 知り合いの夫婦に、結婚生活の秘訣を訊ねることがある。 ある人は、喧嘩しても

どれほど高騰しようとも爆安な秋刀魚

今週からとたんに冷え込み、正真正銘の秋がきた。 扇風機を仕舞いこむのと入れ替えにヒートテックを取り出して着こんでいる。陽が落ちるのもやたらと早い。夕方5時半には真っ暗闇である。ついこないだまで夜7時でも薄明かりが残っていた気がするのに。 妻のみみさんは、花粉と冷え込みが一挙に押し寄せる秋が苦手だという。 ぼくは、紅葉と散歩を楽しめる季節としてとても好きなので(特にジャケットを羽織って出かけられる気軽さが大好きで)、少しでも秋を楽しんでほしいと思い、唐突ながら、秋刀魚を買って

猫は「かわいい」の一点突破で生きる所存

妻の最大の才能は散歩中に猫を発見する能力だと思う。 路地を歩いていると、「あ!にゃんこ!」と妻が叫ぶ。 その声に驚いてぼくが眼を凝らすころには、猫はどこかに去り、先ほどと何も変わらない路地が取り残されている。 あの道をよぎったの!と妻は遠くの彼方を指差し、身の潔白でもはらそうとするかのように力説する。ぼくも妻を疑っているのではない。ただどこにも見えなくて困惑しているのだ。 たまに猫が舞い戻り、目の前に現れることがある。彼女は「にゃあご」と声真似をし、猫を呼び寄せようと試み

夫婦で歳をとるということ

妻のみみさんのポートレート写真を撮りに、近所の公園へ出かけた。 コンサートのプロフィール写真用の、いわゆるアー写(アーティスト写真)だ。 本来ならば、プロカメラマンに依頼してスタジオで撮影するものだけれど、最近は屋外でスナップのように撮られたものも珍しくなく、比較的自由な形式でいいという話になったので、試しにぼくが撮ってみようかと思い立った。 ぼくはもちろん、プロカメラマンではないので技術的な裏付けはない。 機材はミラーレスカメラとパンケーキレンズだけで、レフ板もライティ

どうしてどうして私の話を分かってくれないの

ぼくらはやにわにヒートアップしていた。 夕食にぼくがご飯を3杯食べると、血糖値スパイクを起こして途端に眠気に襲われる。それが血管を傷つけ、長い目で見て身体にも良くないので、その食習慣を改善せよと、妻が迫る。 具体的には、食後の運動か、一日の糖質摂取のバランス改善か、糖尿病検査かと、迫りくる。 恐い。 怒られたくない。 正論を盾に喉元に刃を突き立てられれば、ぐぬぬとしか声が出ない。 でも、ぼくにもかすかな言い分があった。盗人にだって三分の理がある。 それは、妻の健康管理の握

真夜中の救急外来で

あれ?息が苦しい。 妻がそう言うなり、あれよあれよという間に喘息めいた発作が広がり、彼女は食卓にうずくまった。肩で息をしながら、ゼイゼイと気管を鳴らしている。 時刻は、午後11時。 しばらく様子を見ていたものの、刻一刻と事態は悪化しているように思えた。 インターネットで急性喘息時の処置を調べるも「薬を服用すること」と書かれているばかりで、その薬を持ち合わせていない我が家では打つ手が見当たらない。 温かい飲み物を飲んでゆっくりと腹式呼吸をするように、と気休めめいた応急措置が書

夜の屋上で。相手の大事にしている価値観を大事にすること

ビアガーデン開催中というチラシを偶然見かけて赴いた百貨店の屋上は、ほとんど真っ暗闇だった。 ところどころに置かれた円卓に客はまばらで、夜景が見えるでもなく、ビアガーデンといえば電球の列が吊り下がって鬱陶しいほどの酔客で賑わう画を想像していたので、さすがに戸惑った。 よくよく目を凝らせば、奥のほうのテントを張った一角で静かにビアガーデンは執り行われているようだった。 しかし考えてみれば、台風直撃と報道されていた当日であり、(結果的に台風の進路は首都圏からは逸れたものの)昼すぎ