猫は「かわいい」の一点突破で生きる所存
妻の最大の才能は散歩中に猫を発見する能力だと思う。
路地を歩いていると、「あ!にゃんこ!」と妻が叫ぶ。
その声に驚いてぼくが眼を凝らすころには、猫はどこかに去り、先ほどと何も変わらない路地が取り残されている。
あの道をよぎったの!と妻は遠くの彼方を指差し、身の潔白でもはらそうとするかのように力説する。ぼくも妻を疑っているのではない。ただどこにも見えなくて困惑しているのだ。
たまに猫が舞い戻り、目の前に現れることがある。彼女は「にゃあご」と声真似をし、猫を呼び寄せようと試みるけれど、いつも奏功しない。猫は決まって用心深い。
そんなとき、ぼくはかつて実家で飼っていた猫のことを思い出す。
飼い猫は驚くべきことに、道を通行する見知らぬ人に向かい、自ら鳴きながら擦り寄った。(擦り寄ったという表現が控えめに感じられるほど、実際には突進していったというほうが正確だ)
道ゆく人びとはもちろん驚く。呼んでもいない子猫が、遠目から走ってきて足許で鳴いているのだ、無理もない。
人びとは猫の頭を撫でてみたり、手持ちの餌(そんなものはないのだが)がないものかと所持品を探ってみたりする。猫は頭を撫でられれば気持ちよさそうに眼を細め、餌を探していると判れば息を荒くして鼻先を近づける。
やがて目当ての餌がないことが判明した暁には、無慈悲なほど急激に身を翻し、次なるターゲット(道ゆく見知らぬ人)に駈け寄っていく。残された人は、とんでもない失態を犯したかのような当惑顔で肩を落とす。一帯に虚無感が取り残される。
我が飼い猫は見境なく人びとに擦り寄っていたわけだが、決して我が家で餌を与えていなかったわけではない。
家人が帰宅すると道ゆく人と同じように(いやそれ以上の熱烈さで)鳴き喚くので、請われるままに餌を振る舞っていた。
しかし、飼い猫にとってのそれは、最終的な防衛ラインの「キープ」という位置付けだったので、一口ほど味見すると、「もうお前は用済み」とばかりに家人に礼を示すでもなく、いそいそと玄関扉を開けるように促す。(同じ泣き喚くでも乳幼児のほうがよっぽど謙虚だろう)
猫は人間に飼われるという生存戦略をとり、人と共生する道を選んだ生き物である。
その際に、猫たちが差し出すバリューは「かわいい」という一点突破だ。ものすごい戦略である。
(人間に飼われている生き物でも、犬ならば芸をするなり番犬になるなり役に立とうとするし、牛や豚は自らの肉や乳を差し出すではないか)
ルッキズムのみを拠りどころに生き延びようとするなんて、どれほど自信があるのだろう。
それも「保護されよう」といった後ろ向きな姿勢ではなく、「私はかわいい、ゆえに私の主張を聞くべし」という途方もない高みから片務的に宣告してくる。そして人はまんまとその通告に尻尾を振って従う。
路地裏で人見知りする猫を見かけるたび、いったいうちの飼い猫はなんだったのかと懐かしく思い出す。
あまりにも自分の欲望にまっすぐで、猫を被るのが何よりも得意だった猫。
東日本震災の年に17年の生涯を閉じたので、もうすぐ彼が生きた年月と同じくらいの月日が経つ。あんなにも人見知りしない猫には、その後、一度も出会えていない。