
結婚生活にいちばん必要なものは
「結婚生活に必要なものは」と、ある映画の劇中で尋ねられた既婚者が、シニカルに答える。
忍耐。
妻もぼくも、激しい違和感を抱く。(ほとんどブーイングの心境である)
ぼくらの答えは一致している。
会話。
これである。
忍耐も5番手くらいには必要だろうけれど、初手であるわけがない。
逆に、いのいちばんに忍耐をしてまで続けたいと思う結婚とはいったい何なのだろう。(世間体や、子どもや、経済事由か)
知り合いの夫婦に、結婚生活の秘訣を訊ねることがある。
ある人は、喧嘩しても翌朝には持ち越さないことと答えた。
しこりを残したまま一日を始めてしまえば自分の仕事にも支障をきたすので、どんなに腹を立てていても、笑って「おはよう」「行ってらっしゃい」と挨拶するようにしているという。
それはよく聞く知恵の一つだけれど、きちんと実行するのは、言うほど易しくはない。臭いものに蓋をするというか見て見ぬふりをしてやり過ごしているだけにも思える。
ある人は、喧嘩するときには「にゃんにゃん言葉」で言い合うように取り決めたという。
「何度言ったらわかるにゃん!」「そっちだって同じことを言わせるにゃー!」といった感じだろうか。きわめてユニークな手法だ。こうした掛け合いを演じていれば、次第に可笑しくなって口論も腰砕けになるだろう。ユーモアは大事だ。
ただ、ぼくらにとっての「口論」というのは「話し合い」の一形態なので、話し合ううちにほんの少しずつヒートアップし、気づけば言い合いのようになっている形が多い。
「ここから喧嘩です」というスタートラインが引きにくいので、かえって「にゃんにゃん言葉」に切り替えた途端に、ゴングを鳴らしてファイティング・ポーズを露わにすることにならないかと危ぶんでしまう。
二組に共通するのは、そこで起きている懸案はいったん棚上げし(うやむやにし)、ひとまずその場を収めることに注力している点だ。
長い共同生活を保つ上で、それが必要な対処法であることは判るものの(実際、喧嘩を長引かせても良いことは少ない)、ぼくらはきっと粘り強く話し合う道を選ぶような気がする。
むしろ、多くの人にとっては「粘り強く会話する」こと自体がいくらか難しいのかもしれない。
たしかに「ああ言えばこう言う」「こう言ってもどうせあんな反応だろう」と先まわりして感じるようになれば、話す気力が削がれるのは想像に難くない。たとえ話し合っても改善されない現実を目の当たりにし、相手に向き合う気力が雲散霧消すると、「話にならない」という状態になる。倦怠期とはたいがいそんなものか。
悩ましいのは、いざ大事な「話し合いができる」ためには、普段から「会話をしている」必要があることだ。卵が先か鶏が先かという話だ。
ぼくなどは「話が尽きたら、関係はおしまい」と肝に銘じてもよいのではないかと思うけれど、これは不寛容にすぎるだろうか。いずれにしても、たとえ同じ「忍耐」でも、普段から会話を保つための忍耐ならば、喜んで引き受けようと思うのだ。