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夫婦で歳をとるということ
妻のみみさんのポートレート写真を撮りに、近所の公園へ出かけた。
コンサートのプロフィール写真用の、いわゆるアー写(アーティスト写真)だ。
本来ならば、プロカメラマンに依頼してスタジオで撮影するものだけれど、最近は屋外でスナップのように撮られたものも珍しくなく、比較的自由な形式でいいという話になったので、試しにぼくが撮ってみようかと思い立った。
ぼくはもちろん、プロカメラマンではないので技術的な裏付けはない。
機材はミラーレスカメラとパンケーキレンズだけで、レフ板もライティング器具もなく、レタッチの経験もない。
しかし一点だけにおいて、勝機があると踏んでいた。
プロには撮れないけれど、ぼくに撮れそうなもの。
それは、自然な表情だ。
すでに関係性ができているからこその打ち解けた表情のポートレートを撮れるとしたら、むしろぼくしかいないのではないかとすら思った。
みみさんは人見知りしがちだし、プロのモデルでもないので、初見のスタジオで照明を焚かれて笑顔を強いられても、ぎこちないものになりがちだ。(現に、既存のアー写は表情がいくらか堅苦しく見える)
その上、もしスタジオで写真の仕上がりに満足がいかなかったとしても、フォトグラファーに時間延長を申し出てでも再撮影を要求することはいささか気後れするのではないかと思えた。
また、他の人たちが皆、スタジオで写真を撮ることに個人的には物足りなさを感じていた。
せっかくの一枚がどうしても似通った印象になってしまうし、なにより仕上がった写真が、就活の証明写真か婚活のお見合い写真のようになりがちなことに疑問を覚えていた。
それならば、たとえ技術的には不安がよぎろうとも、少し違ったアプローチを試みる価値はあるのではないだろうか。
だから、屋外で撮るからには背景に映る風景にはこだわりたかった。
森林に覆われたうってつけの公園が近所にあることは幸いだった。
森の中で木漏れ日を背負った姿は、彼女にとてもよく似合うと思った。
まだ暑さの残る中、ドレスアップしたみみさんが早朝の人けのない公園に立つ。
最初はたしかにぎこちなかった。
ぼくもレンズの絞りの設定を変えながらカメラテストをしたかったし、園内で構図を決めるのも出たところ勝負なのでいささかの戸惑いもあった。
しかし徐々に慣れてくると、狙いどおりのナチュラルな雰囲気で撮れるようになってきた。光量も十分に足りている。
ぼくはファインダーを覗きながら、彼女に見惚れていた。撮ったばかりの写真をディスプレイで確認すると、みみさんも微笑む。文字通りの自画自賛をしながら、いい空気感で撮影が進む。
陽が高くなり、気温が上がると噴き出す汗との格闘になった。
みみさんは汗を拭き、自分でメイクを直し、日焼け止めを塗り直し、蚊除けスプレーを噴霧する。それでもずいぶん蚊に刺され、彼女の肌が赤く膨れ上がる。
数時間で夥しい写真を撮り終えて帰路に着いた。
すぐにパソコンモニターの大きな画面で写りを確認したかった。
アー写として使うのはたった一枚なので、いわゆる「奇跡の一枚」が撮れていればよいのだけれど、想像以上によい写真がいくつも撮れていた。レタッチもアプリAIで処理できそうな見込みが立った。
何度も何度も写真に映る妻を見返しながらやがて芽生えてきたのは、少し不思議な感慨だった。
それは、ぼくらは夫婦で一緒に歳をとっていくのだという愛おしさだった。
ポートレートに写る妻の姿はとても美しいのと同時に、「きっとこういうふうに歳をとっていくのだろう」という兆しを予見できた。
これはちっともネガティブなことではない。
人は誰しも皺が増え、肌質も髪質も変わり、体型も表情も変わる。まったく当たり前のそのことを、容姿が「衰える」とか「劣化」などと表現したくない。(常にルッキズムに晒されて鋭敏になっている女性に対してはなおのことだ)
容姿は「変化」する。
それは潔く受け容れる。
問題はその変化が、本人に似合っているかどうかだ。
「その人らしい変化」を遂げていけるかが、人生の後半戦になるほど肝心になるはずだ。
ぼくは着飾ったみみさんの柔和な表情の写真を見つめながら、数十年後の姿を思い浮かべ、今から待ち遠しくて仕方がなくなった。