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一緒に同じ時を祝福したい


妻が主催するコンサートが週末に迫ってきた。
新型コロナウイルス禍を隔てて4年ぶりの開催になる。会場は彼女にとって「ホーム」と呼べるような地元の小ホールで、聴衆も昔から足を運んでくれる人びとで、すでにチケットは完売目前まできている。

彼女は主催者の立場で公演を迎えるので、演奏の稽古に加え、こまごました事務作業に追われている。
舞台小道具を手作りし、構成台本を書き、プログラムを印刷して丁合いし、経費の帳簿をまとめ、打ち上げ会場の手配をし、受付スタッフなどに当日の段取りを説明する算段をつけ、まだ他に漏れがないかと常に脳内のメモリを食われている。

抜かりなくTo Do リストを潰しているはずだけれど、それでも本番になればきっと「何か」が起こるものだ。なぜかそういうふうにできている。

「最悪の出来事は、最悪のタイミングで起こるのが人生」

ぼくはそう思っている。

「こんなこと今まで一度も起きたことがないのに、なんでよりによって今なの!」と叫びたくなる瞬間は多々ある。
そのたびに「ああそうだった。今起こるために、今まで起こらなかったんだ。人生とはそういうものだった」とぼくは思い出す。
想定外のできごとに見舞われるのも想定内、という構えでいたほうがいくらか気も楽だろう。

制作進行の事務作業とは別に、もちろん本分である演奏の仕上げがある。
彼女は本番が近づくにつれ、徐々に不安に苛まれる。大勢の人前に立って芸事を披露するのだから緊張や不安でナーバスになるのはむしろ普通だろうと思う。(会社の朝礼で十数人ほどの前でスピーチをするだけでも多くの人にとっては緊張を強いられるものだ)

だからもう、本番前には「自分の課題」にフォーカスしてほしいと思う。今回のコンサートに際し「自分で自分に課しているチェックポイント」に集中する。これをきちんとクリアできるかだけを考え、この期に及んで他のノイズは遮断してほしい。

実際の本番の出来はさまざまだろう。
「自分の課題」に対してもし120点が取れたなら、それは当然言うことがない。期待以上の成果を上げているのだから、「そんな自分を愛する」ことは容易だろう。

問題は、たとえば30点くらいのときだ。
他人の評価ではなく、自分の設定した課題に対して冷静に判断をして30点だったとき、大いに改善の余地はあるものの、それでも「そんな自分を愛せる」のか。

本当の「自己受容」とは、こんなときに問われる。

たとえば「自分の課題」が4つあったとして、各25点ずつの配点のうち、15点・10点・5点・0点の自己採点だったとする。0点については引き続き今後の課題としても、15点を取れた項目はもう少し頑張れば満点にいけそうだと捉えて、自己受容する。

これは30点の現状に満足するという意味ではない。逆だ。「伸びしろがたくさんある」という健全な向上心を持てるかなのだ。
(もしまかりまちがって120点を取ってしまったら、あとの人生は下落するだけになりかねない)

今回の公演は「ホーム」で行われるので、聴衆は身内のファンだ。
それはそれは温かい空気の中で執り行われるだろうと今から想像している。4年ぶりの地元開催の、いわば凱旋公演なのだ。みんな嬉しいに決まっている。観客はいつでも拍手する準備ができている。
これは「期待値が爆上がり」という意味ではない。もっと柔らかな、「一緒に同じ時を祝福したい」という感覚に近い。客は「推し」のコンサートに、ジャッジを下しにいくのではなく、エールを送り合いにいくのだから。

だからできるだけのびのびと堂々と、“今の姿”を全員に見せてほしい。
ここまできたら、それ以外にもうないのだ。


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