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真夜中の救急外来で
あれ?息が苦しい。
妻がそう言うなり、あれよあれよという間に喘息めいた発作が広がり、彼女は食卓にうずくまった。肩で息をしながら、ゼイゼイと気管を鳴らしている。
時刻は、午後11時。
しばらく様子を見ていたものの、刻一刻と事態は悪化しているように思えた。
インターネットで急性喘息時の処置を調べるも「薬を服用すること」と書かれているばかりで、その薬を持ち合わせていない我が家では打つ手が見当たらない。
温かい飲み物を飲んでゆっくりと腹式呼吸をするように、と気休めめいた応急措置が書かれていたのでそれに従うも、当然快方に向かう兆しはない。
彼女はかつて小児喘息を患っていた時期があったけれど、大人になってからは喘息の症状は起きていないという。つまり数十年ぶりの事態に、彼女自身、対応を図りかねていた。
発熱はない。咳もない。ただ呼吸が苦しい。
救急車を呼ぶべきか迷った。
これまでの人生で救急車を手配したことはない。サイトを見回すと、「救急車1回あたりの出動費用に4万5000円の予算計上」という記述も見かける。できれば、そのような厄介をかけたくない。
幸い、徒歩圏内には拠点病院がある。仮に救急車を呼んでもその病院に搬送されるのなら、自力で向かったほうが手っ取り早いだろうと思えた。
病院の夜間受付に電話をした。
すぐに受付とつながり、妻の症状を話すと看護師につないでくれた。電話の向うでは救急搬送を捌くような物々しい音が響く。
「今、コロナ搬送が急増中なんです」と電話口の看護師は心苦しそうに言いながらも、妻の処置がおそらく軽微で済みそうな気配だったことと、診察券を持っている上、自宅から歩いてまもなく着けることもあったためか、「今すぐ来られるなら救急窓口まで来てください」と言われた。「歩くのが難しければタクシーを拾ってください」と付け加えられた。
それはまるで神の恩寵だった。
急いで身支度を済ませると、蹌踉たる足取りの妻の手を取りながら人けのない夜道を往く。無人の病院の敷地を奥まで進み、救急窓口の警備員に来訪の旨を告げた。
妻は終始、喉を鳴らしながら、慎重に息を運んでいる。虫の息にも見えた。
待合室に人の姿はなかった。真夜中の救急外来に足を踏み入れたのは初めてだ。大型モニタから深夜ドラマが無音で流れている。電話口から想起したほど騒々しい空間ではなく、むしろ静まり返っていた。
救急外来の受付スタッフに診察券を出し、しばらくすると奥の診察室から呼ばれる。
研修医のような若手医師と年配の医師が、二人体制で問診し、聴診してくれた。妻の症状は心なしが家にいたときよりも緩和されているように見受けられる。重篤な症状ではなくコロナでも風邪でもないことが確認されると、通例の吸引剤を手配し、妻は吸引器を口にあてがう。
医師たちはすぐに別室に移動し、他の患者の診察に回る。ぼくと妻はそのまま取り残され、妻は朦朧としたまま交感神経刺激薬を吸入し続けている。無言のまま耳障りな振動音を鳴らす機器が室内を埋める。
ぼくは身体をこわばらせたまま、診察室のデスクに手をついて憔悴した妻を見つめていた。そしてただ静かに祈った。
これほど痛感させられたことがあっただろうか。
自分が人生で何を守らなくてはならないかを。
次第に、妻の呼吸が戻ってきた。同時に、刺激薬の副作用で手指の痙攣が始まっていた。
半時間ほどして、病院をあとにし、副作用のめまいで足許のおぼつかない妻を支えながら、無人の街を歩く。深夜1時。見慣れた街が廃墟に映った。どの家も黙って眠りについていた。
コロナ禍で医療崩壊した頃合いに同じような急性喘息を患った人はそのまま自宅待機を余儀なくされていたかもしれない。どんなに心細かっただろうと、考えるだけで苦しくなる。
深夜の救急外来が機能していることに感謝し、働く人びとに最大限の感謝をし、たまたま拠点病院のそばに住んでいた幸運にも人知れず感謝をする。
妻は、家に着くとそのままソファで寝入って朝を迎えた。