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贅沢商店プロトコル ver 1.0.7
トースターが歌い出した朝から、街のシステムがアップデートされた。具体的に言えば、従来型AL-910(自動焙煎機能搭載)だったはずのトースターが、突如MT-P31(ミュージックプレイヤー機能特化型)にモデルチェンジしたのである。この現象は2025年2月24日AM7:23:45に最初の報告があり、その後、区域B-7からG-4にかけて同様の事例が次々と確認された。
興味深いことに、このトースターは一度もパンを焼いていない。つまり、本来の機能であるはずのトースト機能を完全に喪失しているわけだが、これは必ずしもバグではないと考えられる。なぜなら、搭載された楽曲データベースには、バッハからショスタコーヴィチまで、実に47,219曲(2025年2月24日9:00時点)が収録されており、明らかに意図的な仕様変更の痕跡が見られるからだ。
携帯電話の画面には「本日の雨は15%増量中」という通知が表示される。これは気象庁が2024年に導入した「アトモスフィア・エンハンスメント・プロトコル(AEP)」の一環である。注目すべきは、この増量された雨が、実際には物理的な降水現象を伴わないという点だ。つまり、これは純粋な情報としての雨なのである。
実はこの「情報雨」については、1970年代後半に星野科学研究所で既に理論的な研究が行われていた。当時の資料(残念ながら未公開)によれば、「必要性を持たない現象の社会実装」という興味深い仮説が立てられていたという。
外に出ると、予想通り、雨は降っていないにもかかわらず、人々は傘を差している。これらの傘は「パラソル・マトリックス・システム(PMS)」と呼ばれる新世代デバイスで、傘下空間に独自の環境を生成する機能を持つ。例えば:
赤い傘:リズム加速装置搭載(踊りを誘発)
緑の傘:知識強化フィールド生成(読書特化)
黄色い傘:味覚増幅システム(食事体験向上)
青い傘:ニュートラルゾーン形成(標準環境維持)
私が選んだのは青い傘だった。これは決して消極的な選択ではない。むしろ、他の傘が持つ特殊機能による外部干渉を防ぎ、純粋な観察を可能にする研究者向けモデルなのである。
通りの角を曲がったところで発見した「必要のないもの専門店」は、明らかにアーキタイプ・シフト現象の影響下にあった。店内に並ぶ商品群を詳しく分析してみよう:
割れないシャボン玉
素材:未確認(おそらく量子固定化処理済み)
直径:可変(3.5cm~12.8cm)
特徴:永続的形状維持、光の屈折率可変
透明な猫
存在確率:68%(±5%の誤差)
体温:38.2℃(恒常的)
特徴:実体を持たないが触覚刺激は伝達可能
存在しない紅茶
香気成分:検出可能だが分析不能
容量:概念的に無限
特徴:視覚的には不在でも、味覚・嗅覚には作用
空気のケーキ
密度:標準大気圧の3.7倍
甘味度:通常のケーキの1.2倍
特徴:摂取しても質量は増加せず
店主の少女(実年齢不詳、外見年齢12-13歳と推定)は、これらの商品について驚くべき見識を持っていた。「意味があったら、誰も買わないでしょう?」という彼女の言葉は、実は量子商業理論における「逆必要性仮説」を簡潔に言い表したものだったのである。
結果として、私は割れないシャボン玉(型番:SB-∞)と透明な猫(個体識別番号:NC-7742)を購入することになった。価格設定は、どちらも「必要性ゼロの法則」に基づく計算式で決定されていた。具体的には:
価格 = (標準価格 × 虚数単位i)÷ 必要度
この式により算出された金額は、一見法外に見えて、実は極めて妥当なものだった。なぜなら、必要のないものにこそ、本質的な価値が宿るからである。
一週間後、その店は消失していた。より正確に言えば、「位相的に異なる次元への自発的な転位」を起こしたと推測される。しかし、購入した商品は確かに実在し続けている。これは「贅沢の保存則」として知られる現象の好例と言えるだろう。
今もトースターは、パンを焼かずにベートーヴェンの交響曲第7番を奏でている。ちなみにこの曲、トースターの持つ47,219曲のプレイリストの中で、再生回数ランキング第3位なのである。